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「場の意識」の体験について書く前に。

ええと、「場の意識」の体験について書く前に、その思考の仕方について、少々大上段に書きたいと思います。

さて、秋月龍珉著「禅仏教とは何か」の中にもありましたが、「仏教」における「神」の概念は、「法」なのだそうです。

なるほど、「場の宗教」たる「仏教」が、「法」を「神」と崇めるのも、「場の意識」の「文化」のなせる業として頷けます。なぜなら、「場」とは、「法」が及ぼす「領域」の事だからです。

翻って、「関係の宗教」たる「キリスト教」が、「人(イエス)」を神として崇めるのも、「関係の意識」の「文化」のなせる業に思います。これも「関係」とは、「人間の行為」そのものだからです。

この「関係の意識」の極った様式である、「一神教的精神」を駆使して辿り着いた先が、「科学」と呼ばれる「物理法則の体系(因果関係の法則)」であった事も、ある意味で、皮肉な話でもあります。

多くの最先端の科学者が、「仏教」特に「禅」に魅了されるのも、無理なく理解できます。

さて、「ユダヤ・キリスト教」の流れに発する「一神教的精神」は、地に満ちて地球全体を覆っています。

そう、人間の「関係の意識」は、「地球」と呼ばれる「大地の場」に、極まったとも言えるのです。

これは、「旧約聖書」の創世記にあった「神の命令」でもある訳です。

こうやって、「関係の意識」と「場の意識」の「コトバ」を駆使することで、いろいろな出来事が、無理なく理解できるのです。

ここにある、「文化」と呼ばれる美意識は、古今東西の「大地の特性」そのものに根差し、そこに暮らす人々の意識の「優位性(美意識)」を育みます。

「東洋」と「西洋」は、まさにそれぞれが、「場の意識」と「関係の意識」の「文化性」を、その流れの中に育み、純化し続けます。

「文化」とは、「大地」に育まれた、その「民族」特有の、研ぎ澄ますべき「優位性」そのものと理解します。まさにそれは、「言語」そのものでもあり、その「コトバ」自体が、民族固有の特性を象徴し、方向づけているのです。

「日本語の民族」とは、まさにその「コトバ」が生み出す「優位性」を担うのです。

ではこれをもっと純粋に見た場合に、「場の意識」の「文化」の特性とはいったい何か、と言ったところに行きつきます。

「関係の意識」の「文化」が、「科学」を生み出したのと同様にです。

「科学」は、「物質宇宙全体」を、「因果関係」の視点から理解するのに役立ちました。そして、高度な科学技術文明を創り出し、地球全体にまで広がったのです。

そしてこの度は、それを反転させて、「場(意識)」の側から、理解を進める必要がありそうです。
「量子力学の原理」もある意味で、「物質と意識」の「蝶番の位置」にあります。

別な言い方をすれば、目に見える「物質宇宙」から、目に見えない「意識宇宙」へと反転させた「思考の観点」として捉えることが可能なのです。

その「蝶番の位置」に、「人間存在」があると考えるのです。

そうそこには、目に見えない「意識宇宙」へと「認識の位相」を反転させた、万人にとっての客観宇宙が存在しているのです。

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