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「人の持つ本質」とは。

先日、アニメ「キングダム」<*1>を見ていたのですが、その中で政敵である「呂不韋」が、秦王「政」に対し、「人の本質とは一体何だと思うか」と問う場面がありました。

このアニメは、秦国の王となった「政」が、中華統一を目指す物語で、「秦の始皇帝」を題材としています。

そして、「秦」と言えば、日本に帰化した「秦氏」が、その末裔とも言われます。

京都の太秦の地には、大酒神社があり、ウィキペディアによると、日本に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、秦氏遠祖)が勧請したとの伝説が残されているそうです。

「大酒神社」

話を問いに戻します。

この物語で語られたのは、「人の持つ本質は 光だ」との発言でした。

その時私は、「愛」の言葉を予想していたのですが、愛に翻弄される姿が、物語の中心にあり、その次元では、欲望を信仰する「呂不韋」を納得させられないと思っていました。

すると、「政」の周りには、紫色の「光の粒」が現れて、「だいじょうぶ、、、貴方なら言えるはずです。」とだけ、語りかけるシーンだったのです。そして、秦王「政」による「人の持つ本質は 光だ」との発言が、自らの体験と共に説得力を持って語られたのです。

この「だいじょうぶ」には、私自身も身に覚えがあり、「明晰夢」に見た

三人の天使による『もう大丈夫 』の発言や

『だいじょうぶ結婚できる』と言ったものもありました。

この「光の粒」の現象にも、身に覚えとでも言いますか、写真に撮れた体験があり、以下の様な「オーブ」と呼ばれる現象を彷彿とさせます。

お盆の時に仏壇の前で撮れたオーブらしき写真

『「場の意識」の体験について3』

さて、光と言えば、光量子でしょうか。

この「人の持つ本質は 光だ」との発言にも、先の内容の様な多くの「意味共鳴」があり、「文化(人間の外面<*2>)的」、エモーショナルな表現を通して、語られたのです。

物理学の「光量子」の性質にしても、「肉体(付帯質<*2>)」を持たない「場」としての本性が、「人の持つ本質」と酷似しており、多くの説得力を有しています。

詳しい内容は割愛しますが、これからの時代は、この「人の持つ本質」が、前面に立つ時代となると考える、今日この頃なのです。

まさに、これら意識の目覚めが「人の覚醒(アセンション)」を指していると考えると、多くの事実が、「人の持つ本質」として理解されます。

そこを意識しながら生きるのと、無知のまま生きるのとでは、心の振動周波数に、雲泥の差が生まれるのです。

<*1> アニメ「キングダム」シーズン4、エピソード21、唯一の勝機
<*2>  ”()”内の言葉に興味のある方は、「ヌーソロジー」の用語を沿えて検索してみてください。

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