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「空間共鳴現象」体験とは。

昨日は、父親の四十九日の法要と納骨で、藤沢の実家に帰っていました。

そしてその帰りに、とても意義深い「空間共鳴現象」を体験しました。

仕事帰りもそうですが、京都駅から自宅への帰り道に京都バスの73系統をしょっちゅう使用します。

この度もそのバスで帰途に就いたのですが、渡月橋を渡りながら、車窓から渓谷の方面を眺めると、薄っすらと浮かび上がった渓谷に、多くの旅館や人家の窓明かりが黄色く転々と輝いていて、えも言えぬ情緒に満たされました。

そしてバスの窓ガラスにフォーカスを移すと、真ん丸な満月が映って見えたのです。

そして咄嗟に比叡山方面を振り返ると、「おとめ座の満月」が夜空に煌々とひかり輝き、えも言えぬ感慨に満たされたのです。

前回のブログにも書きましたが、その時、手に取っていたのが、田中英道氏著の「京都はユダヤ人秦氏がつくった」でした。

何たる「意味共鳴」、何たる「空間共鳴現象」でしょうか。

確かに半分意図した行動でしたが、「渡月橋からの満月」は、想定外でした。

私のブログは、多くの人が、ドンびき状態だと思います。

まあ仕方がないとはいえ、あまりいい気持ちはしません。

私が言う「空間共鳴現象」体験とは、現在の「現実の状況や体験」が、偶然目に止まった「書籍」だったり、誰か経由の「チャネリングメッセージ」だったり、自分の産土神の「意味的な傾向」だったりと、共鳴し合う体験です。

それが起こり始めたのが、「人生の暗黒期」の「諦観的な事態」を体験してからです。

多くの人が、こんな絶望を望んでいないと思いますが、ダニエルさん経由のチャネリングメッセージによると、最近では「諦観的な事態」を強いて体験する必要はないと、指摘されています。

「空間共鳴現象」は、それはそれは不思議な現象で、自身の後半生の遍歴が、この傾向に彩られています。

ですが決して結果を意図(予想)して、無理矢理そうしようとして、そうなった訳ではないのです。

それが、「フェブライ(ユダヤ)の民の能力」だと言われれば、それもそれとして納得が行くのです。

フェブライの民は、流浪(ディアスポラ)の民であり、「本能的(スピリチュアル)な危機回避の能力」を、有するのかも知れません。

それが、ある切っ掛けで発動したとも言えそうなのです。

この度は東奔西走で疲れましたので、このくらいにします。

次回は、∞9次元「アルクトゥルス評議会」の『今世は、何が違うのか?』を引用しながら、「覚醒」の切っ掛けとなった「諦観的な事態」の具体的な内容について、書いてみたいと思います。

この内容は、以前にも度々書いているのですが、「アルクトゥルス評議会」のメッセージの内容と対比させることで、より一層、この事態への具体的な理解が増すと思いますので、参考にして頂ければ嬉しく思います。

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