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新たな「スピリチュアルな展開」へ

今まで書いてきた体験談に対して、「メンヘラ発言」を疑われる方が、多いことはわかっています。

「新たな価値観を探求したい」との熱い思いも、多くの方々にとっては、何の価値も見いだせない、「戯言(ざれごと)」としか思えないでしょう。

ですが、少し考えてみてください。

この「地球というシステム」は、「物質的な側面」だけを見ても「完璧」で、バランスが取れており、どれだけ多くの「神秘」に溢れているかを。

だからこそ、この世界(宇宙)は、もっとダイナミックで、創造的な出来事に溢れているのであり、人間を始めとする多くの動植物や、無機的に見える森羅万象の側面でさえも、『「地球」と呼ばれる「神秘のシステム」への信頼』を、「生命現象」と呼ばれる、「永遠性の担保」の形を取って、物質面へともたらすのです。

これが、私の体験の中に(どの様な存在からでも構わないのですが)、「何らかの秩序」に基づいて、表現されているはずではないかとの「切実な希望」でもあるのです。

私は、「自分の体験」と「その解釈」をめぐって、是非ともこれらを「合理的な判断」と見なせる、新たな「価値観」なり、「世界観」なり、「宇宙観」が欲しいのです。

そしてこれらの「価値観の創造」に、『眼前に広がる「世界的な絶望」に対する「消極的な反乱」』が関連しているとの「確信」があります。

「9次元存在(アルクトゥルス評議会)」は、「牛飼い座」の「進化の導き手」として、これらの創造に、深く関与しているとの明確な感覚があるのです。

これらは、昨今のダニエルさん経由のメッセージの中に、「驚異的なシンクロニシティ」を伴って、語り掛けて来るのです。

これらは、「象徴表現」を通した「意識エネルギー」としての「共鳴的な実在(存在)」を意味し、これがいわゆる「シンクロニシティ」と呼ばれる現象の正体であるとの確信が、日常生活の中に持ち込まれ始めているのです。

これらは、「人間存在」の、ある意味で「内面的な(関係の意識)」であり、別な意味で「外面的な(場の意識)」でもある、「宇宙の実在」としての、「構造(要<かなめ>)」を意味するとの確信に基ずくのです。

「仏教の伝統」に込められたある種の寓話には、これらの「宇宙的な意識エネルギー」の作用が、神話(佛話?)的な「象徴表現(エネルギー)」の中に、秘められています。

西洋文化の伝統(占星術)にある「牛飼い座」には、一等星としての「アルクトゥルス(存在)」があります。

そして東洋文化の伝統(仏教)にある「十牛図」には、「意識進化の導き手」としての、「牛飼い(役割)」があります。

これらは決して単なるダジャレやフィクションではなく、1000年、2000年の風化に耐えた、「存在」と「役割」に関する「意識進化の寓話」であり、東洋と西洋が重なり合うこの時代に、「新たな方向性」を指し示す、「文明転換のメッセージ」と言えると、私は考えるのです。

過去のブログでも触れましたが、ここ日本では、西周りの「関係の文明」のサイクルと、東周りの「場の文明」のサイクルが、重なり合って見えます。

これら東周り、西周りの「文明の文化」は、「ガイアの法則」の千賀一生氏の指摘にもあります。

そして、『「一者」創造(関係の思想)』と、『「空」縁起(場の思想)』が重なり合って、新たな創造のサイクルが、始まろうとしているのです。


さて、それでは、私の体験に話を戻しましょう。

存在としての「アクトゥリアン評議会」は、9次元の「意識エネルギー」を標榜します。

私は、これらの「チャネリングメッセージ」の体験以外にも、数々の「シンクロの体験」があります。

それが、「宗像三女神」と「秦氏」にまつわる物語です。

過去のブログにも書いていますが、「宗像三女神」は「導きの女神」であり、「素戔嗚尊(牛頭天皇)」の娘神とされます。

「秦氏」が朝鮮半島を脱して、玄海灘を渡る際に援助を受けた「海神族」が信仰する女神とも言われ、「秦氏」が京都に入植した際に「海神族」と共に勧請したとも伝わります。

そして、「御蔵島での嫁との出会い」に至る切っ掛けに、これら「宗像三女神」と共に「秦氏の文化や歴史」が連関しています。

「宗像三女神」は、北九州の「場の神様」で、私の「産土の神(誕生の地を統べる神)」でもあり、「意識エネルギー」としてシンクロするとも考えられます。

そして、「スイミングスクールのドルフィンスイムのご縁」と、「御蔵島への誘い」には、神奈川県秦野市の「三人の女性」たちが関係しているのです。

まあでも、これだけならきっと、「こじつけ」と言えば、そうとも取れそうです。

ですが、結婚後の「子供の誕生」と共に始まった「職場の変遷」と、それに伴う「居住地の移動」にも、「宗像三女神」と「秦氏の文化」が連関するのです。

そして、その中で最も驚いたのが、京都の「秦氏の聖地」との「結縁」でした。

リーマンショックの影響で早期退職となった私は、1年の失職の後「関東」を離れ、職を得るため「鳥取」の会社に就職します。

ですが、その後の業績悪化で再び失職となり、見ず知らずの地で家族共々、「路頭に迷う」は言い過ぎですが、新たな職探しをする破目に陥ります。

そして、社宅退去の月に「関東」へ戻る手筈をして、最後の求人案件に応募して引っ掛かったのが、「京都の会社」でした。

「関東」に居たら、「京都」の選択肢はなかったことを考え合せると、まさに、紙一重で繋がった「ご縁」だったのです。

そう言った偶然の移動劇ですが、ここからの「スピリチュアルな展開」が劇的でした。

待ってましたとばかりに、あらゆる「スピリチュアル(この度は、あまり詳しく書きませんが)」が動き始めたのです。

私は最終的に、この「秦氏の聖地」の要所要所を、毎日の通勤を通して、動き回ることになったのです。

行きは、「松尾」に始まり、「大津」へと向かい、帰りは、「大津」に始まり、京都駅から本願寺の前を通て、「太秦」、「木嶋坐天照御魂神社」、「広隆寺」、「嵐山」、「渡月橋」を経由して、「松尾大社」へと至るルートを毎日通る(通らされる)のです。

全く意図せずに起こった、これらの「結縁」は、「文化」と呼ばれる人間の営みに対する、ある種の「(今まで空想した事さえなかった)超越的なシンクロ現象」への信頼感をもたらしました。

これを『空(場のエネルギー)「縁起」』と言われれば、正にピッタリの表現です。

更に、鞍馬寺の「アルクトゥルス」、ダニエルさん経由のチャネリングである∞9次元「アクトゥリアン評議会」から連関する「高次元のメッセージとのシンクロ」は、まさに『一者(ソースエネルギー存在)「創造」』と言う表現が、ピッタリと来るのです。

これら、「秦氏」と呼ばれる、「旧約聖書に登場するユダヤの失われた10氏族の末裔」とも言われる文化との出会いは、まさに、これから起ころうとする「文明規模の変容」に対する、「確固とした信頼感」を、私にもたらし続けるのです。

以前も触れましたが、実は、「京都におけるスピリチュアルな出来事」は、これだけに留まりません。

私はある意味で、「新しい生き方のデモ役」を引き受けているとの自覚があります。

次回からは、ここ「京都」で私に対して開示が始まった、「あらゆるスピリチュアル」に焦点をあてたいと思います。

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