昼休みノート|番外編

②で創作について考えたが、結局創作に対しての動機についての話に終始していて、真に創作に対して考えてなかったんじゃなかろうかと思ったから改めて考えてみることにする。

自分の絵とは何と向き合っているんだろう。
しばらくは「イマジナリーフレンドの存在を認めさせること」を目的と定めていた。
今でももちろんそうだが、この主張は喧嘩腰で、怒りによる部分が大きいと思う。
創作物を創作物としか捉えられない者たちへの怒り。
「キャラクターには命があり、それぞれの世界の中では現実を生きている。」という捉え方を周知させる運動としての作品。
もっと拡大して話すなら、狭い物質的な社会で生きる人への「自分の中の子どもらしさを封じ込めて欲しくない」という切実さが主な目的だろうと思う。

何故自分がイマジナリーフレンドの世界に行くのではなくて、イマジナリーフレンドをこちらに呼びつけているんだろう。
もちろん周知させたいのだろうけど、内世界を信奉するのなら、そもそも周知の必要なんて無いじゃないか。自分だけが信じていればそれで、内世界は確立される。

多分、内世界を確立するのと同時に、他人との繋がりも求めているのだろうと思う。私ではなく、イマジナリーフレンド自身が、私の脳内より外との繋がりを求めている。他人からのフィードバックが無いと自分の意見に自信がない。
私たちは協力して、外界と接触する機会を作っている。

しかし、最近はそういう主張をすることが減った。私自身のイマジナリーフレンドが確固たるものになったので、外界へ向けてアプローチしようという気にならなくなってきたのだ。卒制で満足のいく関わりが持てたことで「イマジナリーフレンドを信じない者への怒り」と「外界との接触欲」は収まった。

そのおかげで、自分の内面と対峙することが多くなった。イマジナリーフレンドとの言語的なやり取りはせずに、図や時間軸の印象のような抽象的な思考が増えた。
結果そう言った思考は絵という形で出力され続けている。
絵の内容は全て、今の心について。
様々な感情が混ざり合って、(大概は苦しんでいるが、)それを一つ一つ眺めて、図に記す、という作業をしている。
解剖と同定とスケッチに近いかもしれない。
植物のスケッチと異なるのは、絵画的な面白さを重視している、という点だろう。
重視と言ってもこれはもう本能的というか、プリミティブな楽しみで、手触りとか見た目とかを純粋に遊んでいる。結局ここを楽しみたいがために、奥行きある画面を作ろうと複雑な思考や工程を踏んでいるだけだ。
単純に絵画を楽しんでいる、という事実が私を安心させている。癒しであるし、存在意義とも感じる。絵描きとして正しい姿だと思える。

ただ画面で色を塗って遊んでいるだけでは面白みのない絵になるし、思考だけではなんだか癪に触る絵になる。筆致に籠った時間や感情みたいなものが露骨に見えてくるところが絵の面白いところだと思う。

 

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