私にとって文章を書くとは
あらかじめ何の意味も与えられず、自分の意思とはまったく無関係に、まるでこの世界に放り込まれるかのようにして始まる私たちの人生。能力も家族も生まれてくる時代も、自分で選べるものは何一つない。将来どんな病気にかかるのか、どんな歴史の中で生きることになるのか、誰もわからない。そんな圧倒的な不条理の中で、人生を生きる意味や理由を探しあぐねて何度躓いたことであろうか、どれだけ彷徨したことであろうか。
しかし、考えてみれば毎日こうして生きているという事実だけは確かにあり、人や事物との出会いと別れを繰り返しながら、大小さまざまな喜怒哀楽を心に刻み続けている・・・誰かと出会ってうれしかったこと、何かを失って悲しかったこと・・・それこそが生きている意味なのだということに思い至ったのは40歳を少し越えた頃であった。
日が昇れば起き、飲み食いし、そして日が沈めば眠る。仕事をし、遊ぶ。
病む人に向き合う仕事を始めて37年になる。病気が治って喜ぶ人もいれば、つらく苦しい闘病の果てに亡くなる人もいる。病む人とその家族の織りなす喜びと悲しみの人生ドラマの傍らに居合わせて実にいろいろな感慨を抱く。
仕事の疲れを癒すために休みの日には妻と野山に出かける。渓流で岩魚を釣り、山菜を摘む。西の空を濃いだいだい色に染めながら沈みゆく荘厳な夕陽に見とれながら、酒を飲む。焚き火を囲んで海や山の幸に舌鼓を打つ。我と時間を忘れて大自然の中にどっぷりと浸かり込む経験は仕事とは別の感動がある。
こうして連綿と繰り返される毎日の出来事、それにつき感じたこと、考えたこと、悩んだこと・・・その時々には印象的であり鮮明でもあるが、時の流れとともに風化し、やがては脳裏から消え去ってしまう。まるで宝石のような輝きを持って紡がれた一つ一つの経験がいつの間にか忘れ去られてしまうとは、何と惜しいことだろうか。中にはつらすぎて思い出したくないようなことがあるにしても。
人生で出会った経験の一つ一つを自分の人生ノートにしっかりと書き留めておきたい、その時に感じた喜怒哀楽を文字で表現したい。生きる目的や理由がたとえわからなくても、こういった経験を積み重ねるだけでも人生は十分生きるに値する。この気持ちに突き動かされて私はこうして文章を書いている。
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