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6、行けるときは、徹底的に行け!:クワガタから学ぶ人生

前回までで、僕の「森の上の方」の環境には「ノコギリ クワお」「ビバお」「コクワ コクワお」が「カラフルゼリー」を食べて、愛による犠牲者を出しながら暮らしている。

平穏な日々の下で

一週間に一度ほど、虫かごの清掃をしてやる。

よく考えてみれば、これほど飼いやすいペットもいないかもしれない。
とにかく手がかからない。
散歩も必要ないし、エサだって、数日に一度でいい。
下の方の世話だって、しなくていい(のか?)。
留守番だって平気だ。寂しいなんて、言うわけがない。

いや、犬猫もそうであったように、これから変わるのかもしれない。
今後、クワガタやカブトムシの権利が高まっていけば、「家族の一員」として扱わなくてはいけなくなり、おケツを拭いてあげたり、洋服を着せてやる日が来るのかもしれない。

まだ、そんな感じではなく、良かった。
今のうち、今のうち。
そんな思いをいだきつつ、僕は一週間に一度ほどの清掃にのぞむ。

一匹一匹、取り出し、ダンボールに避難させ、虫かごを丸洗いする。

うーむ、しかし、彼らは、そもそも、僕の存在を何だと思っているのか?

一週間に一度ほど、何かに背中を持ちあげられ、どこかに移動させられる。
そして、きれいになった虫かごに、また持ち上がられ、戻される。
時々、木の配置が変わっていて、とても楽しい。
ゼリーは、同じ、その何かによって、無限に供給される。

その「何か」が僕なのだが、彼らはそれに何の疑問も感じないのだろうか?

我々、人間は、神の存在を感じ、祈ったりしている。
まあ、僕も人間を飼育していたら、単純にゼリーなど置かないだろう。
果物などを木にならして食料にさせる、なんて、食料を与えるのに、ひと手間、はさみたくなるのもよく分かる。

そんな複雑なエサのやり方をしているのに、神の存在を感じ、祈りを捧げてしまう。
さすが人間である。よく分かっている。

クワガタの虫かごの清掃をしながら、思ってもみなかった深い話になってしまった。
他の生き物と比べることで、自分たちのことがよく分かるということもあるのだな。

いや、もしかしたら、クワガタ達も何も感じないようでいて、そろそろ、僕のオブジェでも作って、祈りだしたりするのだろうか?

まあ、オブジェでなくてもいい。
彼らのレベルからして、砂山くらいでもいいと思うが、そうしたら、神様、とっても喜んじゃうな。
いや、よく考えたら、砂は撤去していたので、祈ってくれるだけでいいや。

だが、いつまで経っても、一向にその気配はない。

それはそうだろう。
一見、平和そうな日々の下で、彼らはとても忙しいのだ。
僕にかまっている暇など無い。

もうオスしか残っていないのに、何に忙しいか?
それは「泥沼の権力争い」である。

「ビバお」の天下

ビバおは最初から違っていた。

その大きな体躯。
新しい環境に入れられても、土に潜ることなく、テレビに挑み続けた、その気宇の壮大さ。

まさに生まれながらの王である。

一週間に一度ほどの清掃のときでも、ビバおは違う。
必ず、一度は神に抗い、威嚇し、大きなアゴではさもうとしてくる。

非常に愚かである。
だが、とても美しい。

クワおは、ちょっとだけ歯向かおうとするが、すぐにやめる。
コクワおにいたっては、最初から降参だ。むしろ、持ちやすく足をたたんでしまうくらいだ。気が利いている。
ビバ子とビバ美は・・・、いや、亡くなってしまった人のことを色々言うのはやめよう。

まあ、ビバおも、そろそろかなわないことを学んでもいい頃だとは思うが、とにかく、最初から最後まで一貫して歯向かってくる。

結局、いつもかなわず、ダンボールに置かれてしまっても、「次は見てろ!」と言わんばかりに、僕に対し、威嚇をし続ける。
そして、そのわずか数分後に、また負けて、虫かごに戻されてしまっても、他の奴らのように隠れ家に向かったりはしない。
振り向いて、こっちを威嚇するのである。

僕も男として、こうありたいものだ。
たとえ、神が相手でも、恐れずに立ち向かっていく。

もしかしたら、みなの代表として、みなを守ろうとしているのかもしれない。
そうだとしたら、さらにカッコいいではないか。

立ち向かう「ビバお」の背中から学ぶことはたくさんある。

というか、こっちが背中なのだろうか?
いや、普通、いつも向けている方が正面なのではないか?
とすると、こっちがお腹なのだろうか?
目も横についているし、よくわからん。

まあ、いい。
一口に背中といっても、色々な背中があるということか。
自分の考えや納得が及ばないこともある。
それも学ぶ点である。

きっとクワガタ達も同じことを思っているのだろう。
僕の虫かごの中の世界も、ビバおを中心に動いていた。

ビバお時代

今、思えば、ビバお時代は、華やかな時代だった。

人口も多く、虫かごの環境も様々に変わり、華やかで、まさに「ビバお桃山時代」といったところか。

ただ、晩年は自らの愛で人口を減らすなど、暴君の面も持ち合わせていた。

功罪あわせ持ちながら、それでも「ビバ ビバお」は、名君であったと思う。
いや、もう「織田 ビバお」かもしれない。

厳しさの中に、優しさ、そして、時にはユーモアも取り混ぜながら、虫かごを支配していたと思う。

挑んできた相手(主にクワお、というか、クワお)に対しても、跳ね返しながら、「まだまだだな。また来いよ」というような懐の深さがあった。

それが分かったのも、次の時代の王がひどかったからだ。

クワおの逆襲

ビバお時代の「クワお」は、時々、「いけるかな?」と思って、挑んでは跳ね返され、逃げて行く、そんな存在だった。

確かに、ビバおは輝いていた。
ビバおの周りは、常にワントーン明るかった。
そんな太陽のようなビバおの影で、機を窺っているクワおからは、野生育ちらしい狡猾さが見え隠れしていた。

だが、ビバおの輝きにも陰りが見える時が来た。

これは僕のような人間様には分からない。
「あれっ、いつもより、クワおがしつこいな」と思ったのが最初である。

小さな体躯のクワおが、ひと回り大きいビバおに、しつこく戦いを挑む。
いつもよりしつこい。

挑戦を続けて、数日経つと、ビバおがついに逃げ出すようになった。

クワお、天下に武を布く

こうなると、野生育ちのクワおはエゲツない。

今までの温情はどこへやら、執拗にビバおをいじめ始めた。

なんと胸糞の悪いヤツだ。

少しでも相手が弱ったと思ったら、もう徹底的に行く。
それはもう、見ているコッチが気分が悪くなるほどだ。

これが自然の掟である。

眉をひそめながら、僕は自分の甘さを痛烈に感じていた。

「行ける時は徹底的に行くんだぜ!」
クワおが、顔に陰険な笑みを浮かべながら、僕にそう言っている気がした。

思い出してみれば、ビバおも散々、威を振るっていたのだ。
こうなるのも仕方がない。

そして、何より、ビバおは、常にクワおを許していた。
あの時に息の根を止めておくべきだったのだ。
どこまで行っても、ホームセンター育ちのおぼっちゃまの甘さが出てしまうのだろう。
それがビバおの魅力でもあった。

クワおに追い回される日々の中で、ビバおは確かに僕にこう告げていた。
「行ける時に徹底的に行っておけば良かったのさ・・・。」

そして、数日後、王者ビバおは失意の中、あの世へ旅立った。

ビバおを埋葬しながら、僕は誓った。
「行けるときに行こう」と。

クワお時代

時代、というものは、やはり、その時代のトップのパーソナリティが色濃く影を落とすものだ。

クワおは、ビバおよりも、すべてにおいて、徹底していた。
自分に逆らうものは、徹底的にいじめ抜く、そんな王であった。

さすがに自然界で育っただけのことはある。
「他人にどう思われるか?」なんてことは一切気にしない。
これもひとつの王のカタチであろう。

苦々しい思いで、虫かごをのぞく時間が増える。
何か自然界の掟そのものをオブラートに包むことなく、見せつけられている気がする。

「かっこつけていても、人間だって、しょせん、そうだろ」
「お前も甘ちゃんだな。そんなだと、ビバおのようになるぜ」

と、クワおが僕を笑っているような気がした。

もう、クワおのことを素直に見られない。
常にこっちに向かって、ドヤ顔をしているような気がする。

だが、よく考えてみると、主役はこいつであった。
あの日、あの時、公園の通りの真ん中で、人に踏まれるような道の真ん中に、隠れもせずにいたのが、この「クワお」であった。
それがすべての始まりであった。

そう思うと、間抜けなヤツだ。
本当にすごいヤツは公園に単純に落ちてなどいない。
あのパスタをレンジで茹でるヤツの中で、一夜を微動だにせずに過ごした、クワお。

そんなことを思うと、こうして、長い雌伏のときを経て、トップに立った彼を誇りに思う気持ちも出てきた。

僕の虫かごを見る眼差しにも光が戻ってきた。
もしかしたら、すべて僕の思いすごしかもしれない。

「ノコギリ くわお」
いや、もう「豊臣 クワお」と呼ぶべきだろうか。

もう2匹しかいない虫かごの中で、クワおは権力をふるい続けた。

しかし、そんな時代もついに終わりを告げることになる。

(続く)


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