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僕がクワガタから学んだこと:あとがき

今、僕は空っぽの虫かごを前にして、突っ立っている。

誰もいなくなった虫かごを片付けようと思うのだが、もうかれこれ、2週間近く、片付けられないでいる。

激しい愛憎劇、泥沼の権力闘争が、ここを舞台に行われたのだ。

一人の女性を奪い合う2人の男、
そして、その2人の激しい愛に命を失ってしまった一人の女性、
さらに、その2人の男を翻弄する一人の別の女性、
次々に入れ替わる時代と3人の王、
最後に訪れたLGBTの新しい価値観の時代・・・。

いろいろなことがあった。
だが、その虫かごも、今は空っぽだ。

あらためて虫かごを見ると、何やら目の前が曇って、はっきりと見えない。
これがペットロスというものだろうか。

いや、よく考えたら、コクワおが一人になってから、全く清掃をしていなかった。
だから、ガラスが曇っているのだ。

ああ、片付けるのが面倒くさい。

クワガタを飼った、もう一つの理由

クワガタを拾ったのは全くの偶然であったが、僕には、実は他の目的もあった。

それは「自分達(僕と妻)は犬や猫を飼えるのか?」というテーマに対する実験ということだった。

自慢ではないが、僕はズボラである。
妻も、やはり、ズボラの一員である。

洗車なんて、人生で一度もしたことがない。

そんな僕らが犬や猫を十年以上も飼えるのだろうか?

なぜ、散歩になんて、連れて行かなくてはいけないのか。
柴犬などは、日に2回も連れて行かなくてはいけないという。
いい加減にしてほしい。
本当に2回も行く必要があるのか、どうやって知ったのか?
本人も望んでいるのかすら知らないが、それをやらないと虐待と言われそうだ。
そんなに行きたいなら、頼むから一人で行ってきて欲しい。

さらに、フンを僕が取るのか・・・。
なぜ、それほど、野グソをしたいのか、分からぬ。
犬にとって、最高のエンターテイメントが野グソだという事実を前に、世の中の人は何も感じないのか・・・。
だが、こう見えて、昔、小さい頃に犬を飼っていたことがあるので、フンを取るのはできる。
しかし、やりたくはない。

これほど世話をするなら、せめて、背中に乗らせて欲しい。
散歩中も背中に乗れるなら、行ってもいい。

というわけで、自信がないので、クワガタでも飼ってみるか?というところだった。

さらにもう一つの理由

実は、それだけではない。
もう一つの理由がある。

それは、「虫を触れるようになる」ということだ。

最近、自分で衝撃だったのは、「虫を触れない」ということだ。

子供の頃は、あんなに普通に触れたのに、今は、気持ち悪くて触れない。
たとえ、どんな虫でもそうだ。

あんな好きだったカブトムシも、よく見れば、毛が生えているではないか。
気持ち悪い。
とても触れない。

気がついてみると、こんなに軟弱になっていた。
昔の大人は、僕の親世代は、おとなになっても、虫を触っていたような気がする。

これでは恥ずかしい。
だから、「虫を触れるようになりたい」というのが、とある1人の中年男の願いの一つだった。

シーザーがすごいのは「ひとつのことをひとつの目的ではしないこと」だという意見があるが、こうしてみると、なかなか僕もシーザー並みではないか。

クワガタ飼育、ひとつをとっても、たくさんの目的をもって行っている。

飼育を終えて

「まあ、秋くらいになったら、死んでしまうから、その後はハムスターに昇格だ」

なんて、当初の予定はどこへやら、そんな目的も見失うほど長くなった、数年に渡るクワガタ飼育だったが、いざ、飼育を終えてみると、それなりに楽しかった。

やはり、小さい時に飼うのと、おとなになってから飼うのは、違うものだ。

得るものが違う。

まさか、クワガタごときから、これほど学ぶものがあるとは思わなかった。
ハムスターからは、どれほど学べるか・・・、今から楽しみである。



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