僕が料理し、妻が喰らう日々。

「えっ、旦那さんがご飯を作るんですか?」

ちょっと、夫婦で誰かと知り合うと、必ず驚かれるのが、これ。

それが女性だと、その後、

「いいなあ・・・」
「うちの旦那もそうだったらいいのに・・・」

などと言われることが多いのだけど、いつも、

「きっと、あなただったら、耐えられませんよ」

と僕はひそかに思う。

妻は料理が下手ではない

妻の名誉のために書いておくと、妻は決して料理が下手ではない。
どちらかというと、上手な方なんじゃないかな。

だから、それが理由で僕が作っているのではない。

ただ、妻の料理は、手早い系なのだ。
「あるもので、ちゃちゃっと作りましたよ」という感じ。

そして、麻婆豆腐と食べたいと思ったならば、麻婆豆腐の素を買ってきて作る。

それが毎日続く。

そこで僕は疑問に思う。
そして、妻に問うだろう。

「これは何を目指したの?」って。

365日×3回チャンスは訪れる

「今日は麻婆豆腐を食べたいな」
「はい、麻婆豆腐を作ったよ」
「おいしいね。」

「今日はカレーだよ」
「わーい」
「おいしいね」

これを単純に繰り返して、一体、何になるのか?

僕にはよく分からないし、「毎回、同じものを同じように作る」というのも、理由がわからない。

それなら、作らない方が遥かにマシ。
何か買ってきて、適当に食べればいい。

「なにかの素」を買ってきて、わざわざ家で作るというのも意味がわからない。
手がかかるだけではないか。

だから、どうせ作るのであれば、何かをしたいし、何かを得たい。

その過程で、万が一、何か飲食業界に打って出る可能性が見つかるかもしれないじゃないか。

少なくとも、ブラックボックスを解明したりすることはできる。
麻婆豆腐は「麻婆豆腐の素」から作るのではなく、甜麺醤と豆板醤からできていることを知ることができたりする。

人間は1日に3回食事をするだろう。
それならば、365日×3回のチャンスがあるということだ。

365回×3回、何かを追えば、ものすごく遠くにまで行けそうだ。

いや、朝食や昼食にさほどの時間は取れないというのなら、夕食だけでいい。

365日×1回のチャンスは少なくともある。
毎日でなくてもいいのだ。

だが、妻は、365回、一周しても、きっと、また同じ料理を作る。

今日の麻婆豆腐と、1年後の麻婆豆腐は同じで、それに疑問を持たない。
今も一年後も、麻婆豆腐は、「麻婆豆腐の素」がないと作れないと思っているだろう。

だから、僕は自分が料理をすることに決めたのだ。

僕の作る料理の一例

例えば、みんな大好き「カレー」。

ある時、

妻「カレーを食べたい」
僕「どんなカレーがいい?」
妻「別にカレーなら何でもいい」
僕「はぁー? でも、そういうときは、どうせ市販のルーのカレーが食べたいんでしょ?」
妻「うん」
僕「つまんないんだよな〜。あっ、でも、市販のルーを比べてみようか?」
妻「なんでもいいよ」

ということから、その日のメニューはカレーになり、そして、それからしばらくカレーが続いた。

その日はジャワカレーとゴールデンカレーで作り、どちらかが無くなったら、バーモントカレーで作り、コクうまカレーで作り・・・と、常に2個ずつバリエーションを用意して、違いが楽しめるようにした。

そして、絞っていき、頂上決戦を行っていき、次に市販のルーを買う時の候補を決めていくわけだ。

その結果、うちはジャワカレーに決まったのだが、その間中、妻は「うめぇ!」と言っていた。

もはや、僕は市販のカレーのルーをマスターしたといえる。
どんな人にも、「ああ、あれはこんな感じだよね」と語り合える。
「カレールーのマニアとも話をあわせることができる」くらいになったと言える。

そして、その後は、「欧風カレーをルーを使わずに作る」というプロジェクトになった。

コンソメを下地にするか、ビーフシチューを下地にするか・・・、結局は、欧風カレーなんて、それだ。

ということを1ヶ月程度、やっていたわけだ。

となると、1ヶ月程度、毎日カレーだったわけ。

普通の人は、1ヶ月くらい、ずっとカレーじゃ怒るでしょ?

でも、妻は常に「うめー」だった。

我が妻の強さのほどがしれる。

作った人に失礼だから・・・

僕が料理を作るのに当たって、一番危惧するのがこれだ。

これに陥っている人のいかに多いことか。
身近にもいる。

誰だって、他人の家に行き、何かを作ってもらい、ごちそうしてもらった時、褒める以外はできない。

わざわざ作ってくれたのだから、おいしかろうが、そうでなかろうが、最大限の賛辞を送る以外の選択肢はないだろう。

なのに、中には、それを真に受けてしまう人がいる。

「私は料理が上手なんだ」から、「次もおいでよ」となり、「おいしい!」→ 「料理が上手なんだ」→「次も・・・」→「おいしい!」のエンドレスで高みに登っていく。

そうして、飲食店などを始めてみて、はじめて現実を知るわけだ。

食べる方も「できれば、外食の方が・・・」と思っているはずだ。

強制的に「おいしい!」と言わなくてはいけないし、さほど嬉しくないのに、「朝5時から作っちゃった」なんて言われると、「ありがとう」を絞り出すことになる。

もうどうしようもない。

作り手としては、こういうのには気をつけなくてはいけない。

正直な意見を聞き出すのも、なかなか難しいものだ。

逆の立場に立ってみると・・・

こうしてみると、僕が妻の立場だったら、とても耐えられない。

料理を作って、「これは何を目指したの?」とか言われたら、「はぁー?なんだこいつ」と思うからね。

しかも、強制的に意見の表明をせまってきますから。

「うまい?本当に?どこらへんが?」なんてね。
「うめー」だけの、いい加減な論評はゆるさない。
迫りくる脅威ですよ。

食事のたびに最悪です。

だが、妻はこれらが何でもないことのように涼しい顔をしている。

まあ、でも、何らかの実験に付き合えるというのは楽しいかもしれない。

「あー、そうか、この量ひとつで、こんなに違うのか?」
「市販のカレーのルーでも、味が結構違うんだな・・・」

努力なしで、色々な味の違いを学ぶことが出来るし、バリエーションも楽しめる。

なんだか、楽しそうな感じもしてきた。

だけど、僕の妻は、何を食べても、「うまい!」だし、さらに追求しても「あー、なめらかだね!」くらいだから、これらが分かるようではない。

だから、こういった楽しみも無いのだと思うと、要するに、ただ喰っているだけなんだよね。




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