カジュアルな差別

去年の夏、シチリア島の小さな町をぶらぶらしていたらイタリア人老婦がニコニコと話しかけてきた。

「中国人?」

「日本人です。」と答えると 「meglio!」 と陽気に笑う。イタリア語のmeglioは英語のbetter。その時のニュアンスは日本語で言う『まし』というよりは、『いいね!』くらいの友好的なものだったけど、心にチクっと刺さった。

数年前にミラノで留学生などに部屋を貸しているイタリア人のお宅にお邪魔した時、何度も『日本人は礼儀正しいし部屋を綺麗に使うから信頼していて、いつも喜んで部屋を貸している。中国人とは大違いだ。』と聞かされた。それをとても嬉しそうに話すのだ。これを私は「日本人で良かった」で済ませられない。

海外で「ニーハオ!」と言われる度に「中国人じゃないし!」と内心思っていた自分を思い返す。アジア人だからと見下されたり、アジア人はみんな同じだと思われていることに腹を立てているだけじゃない、どこかで「中国人なんかと一緒にされてたまるか」と思っていなかったか。

私たち日本人のアジア人差別は根深い。最初に挙げたイタリア人の無邪気な差別よりももっとドロドロしていると思う。

欧米人>日本人>アジア人 

という認識は本当に恥ずかしい。”海外でこんなに評価されてるニッポンスゴイ!”の気持ち悪さも、誰が言ったか『愛国ポルノ』とは言い得て妙。愛国心とナショナリズムは紙一重。「この国は素晴らしい」と「この国はより優れている」の大きな差に気付きにくいのが怖い。

たまたま日本に生まれたという出自以外に誇れるものを個人が持ってこそ、健全な愛国心が生まれるのではないか。

差別がなくなることはなくても、せめて差別意識に気付きたい。

このテーマはもっとたくさん書きたいことがあるけどまとまらないので今日はここまで。




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