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評価の自己増殖

前回の続き。午前中にチームの活動が終了したので午後はプライベートの時間を楽しんだ。
そこから90分ほど電車で移動。いつもお願いしている美容師のところにお邪魔してしてカットをしてもらった。相変わらずの安定感。かれこれ5年以上は同じ美容師にお願いをしている。カットに対するリクエストを細かく出す必要がなく、何も言わずともこちらの好みを汲み取って散髪してくれる。とても有り難い。本来、散髪そのものはどちらかというと必要に迫らてやっと実行することが多いのだけど、ここまでストレスなくコミュニケーションがとれると散髪も楽しい時間になるなあ、などと考えた。
散髪後は30分程度電車で移動して映画007を鑑賞。生と死、そして性と愛が散りばめられた同シリーズは学生時代から自分の好みである。アクション映画だけど、奥行きのある映画作品だと勝手に解釈して評価している。

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ヒト・モノ・コトに対する評価について考えてみる。評価は解釈によって決まる。そして解釈は観測者によって異なる。この理屈から言うと、ヒト・モノ・コトに対する評価に対する絶対的な正解はないことになる。観測者の数だけ異なる評価が存在するからだ。したがって一つの作品に高評価が集まることは珍しい現象になるはずである。しかし自分が世の中を見渡す限り、評価されているヒト・モノ・コトは一極に集中しているように見受けられる。もちろん、評価の一極集中説が間違っている可能性はある。また普遍的な美みたいな要素があり多くの人がその普遍的な美みたいな要素を感知して高評価を下しているのかもしれない。しかし世の中の評判の良いヒト・モノ・コトは全てがこの限りではないし、むしろ本物こそマスから評価されにくい風潮すら感じる。この評価の一極集中現象の原因は、評価もカネと同じように、複利によって自己増殖からだと最近考えるようになった。気づいたら他者の評価が自分の解釈に影響を及ぼし、自分で見極めるべき評価が歪んだものになってしまう。このような歪んだ解釈に基づく評価が積み重なることで評価の一極集中が引き起こる。こんな現象が広く頻繁に起きているのではないかな。勘だけど。結局、真実のところは分からないので実証不可能な仮説にすぎない。しかしこのような仮説を自らの行動原理に組み込むことで享受する利益はあるものだと思っている。

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これで900字くらい。まだまだ文章を書くチカラが乏しいと感じる。継続して取り組みコツコツ技術を向上させるしかないね。がんばろう。

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