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独りよがりの正義感で、僕は従兄弟の楽しみを奪ってしまった

 田舎街にある小さなスナックで15歳の僕は、その店のママに罵声を浴びせ続けていた。ママは僕をにらみ返して、
「私は悪くない」
「どの客にも同じことをしてる」
「ここは子供の来るところじゃないから帰れ」
 と言った。
 すべてをぶちまけても僕はどうしても怒りが収まらず、カウンターを乗り越えてママに飛びかかろうとした。その僕を後ろから羽交い締めにして、床に押さえ込んだのは従兄弟のお兄さんが働く工場の社長だった。

 それは東京ディズニーランドが開園した日なので、1983年(昭和60年)の春のことだ。当時、僕は高校に入学したばかりの15歳だった。夕食中に両親が従兄弟のお兄さんの話を始めた。お兄さんは僕より10歳上で、生まれながらに脳性小児麻痺と知的障害を患っていた。体をくねらせながらではあるけれど、歩くことはできたし、母の話だとかけ算やわり算でなければ簡単な計算もできた。一年ぶりに会えば、
「ひ、ひ、ひさ、ひさしぶりだね」
 とうまくしゃべれないのに僕の名前を呼んでくれたのがうれしかった。
 お兄さんは母方の伯母の長男で、子供のころから何度も会っているが、一緒に遊んだことはない。たぶん、伯母さんが気をつかって遊ばせなかったのだろう。

 夕食時の両親の話は、お兄さんがスナックのママにたぶらかされて、給料の大半をその店で使わされているというものだった。
「店のママが襟元から胸をちょっと触らせるらしいよ」
 と母が父に言った。
「それで喜んじゃったのか」
 と父は日本酒を飲みながら言った。
「まあ、仕方ないよね」
「可哀想なやつだな」
 身体にハンデを持って生まれてきたために、女性に免疫のないお兄さん。それをわかっていながらスナックのママは色仕掛けをし、わずかに胸を触らせるだけを繰り返して、お兄さんをその気にさせているらしい。お兄さんは家の近くにある小さな工場で働いていたが、できることは少なく、当然のことながらほかの社員よりも遥かに低い給料だった。その大切なお金をスナックのいかがわしい女が奪っている。僕にはそう聞こえた。
「そんな話はやめろよ」
 僕は言ったが、両親はやめなかった。
 父も母もなぜお兄さんを救いに行かないのか?
 伯父さんと伯母さんはなぜ救いに行かないのか?
 僕は大人たちが怠けて、お兄さんのことを笑いのネタにしているに違いないと思った。

 僕は夕食の途中で家を飛び出して、自転車でお兄さんの家に向かった。家の明かりは消えていて誰もいなかった。お兄さんの工場に行った。何人かの男性が機械の前で話していたが、お兄さんはいなかった。僕はそのうちのひとりにスナックの場所を訊いた。工場のすぐ近くだった。1分もしないうちに紫色の看板が見えた。僕は自転車から飛び降りてスナックの中に入った。お兄さんはおらず、カウンターに3人の客がいて、その向こうで客に笑顔をふりまくママらしき中年の女性がいた。僕の目にはその女が汚ならしい物体にしか見えなかった。
 僕はカウンター越しにママを罵った。
「卑怯もの」
「詐欺師」
「インチキ女」
 ママは最初のうち何のことかわからないようだったが、僕がお兄さんの名前を出したことで察したようだった。弱々しい表情から一転して、鬼のようになった。今思えば、女一人でスナックを切り盛りするにはそれなりの覚悟や荒れ地を切り抜ける経験がなければならないのだろう。高校生の子供が怒鳴ったところで、怖さなど微塵もないようだった。
「私は悪くない」
「どの客にも同じことをしてる」
「ここは子供の来るところじゃないから帰れ」
 と静かに、そして重々しい声で言った。
 だが、その開き直ったような態度に僕はさらに腹が立った。カウンターを乗り越えてママに殴りかかろうとしたとき、客の一人に後ろから羽交い締めにされて床に押さえ込まれた。その男はお兄さんが働く工場の社長だった。社長は無言のまま暴れて逃げようとする僕を押さえ続けた。大人の力は強くて払いのけることはできなかった。
 やがて暴れ疲れて大人しくなると、
「もう来ない方がいい」
 と言って社長は僕を店の外に出した。

 翌日、父がスナックに謝りに行った。帰ってきた父は何も言わなかった。僕はただお兄さんのお金がこれからは誰にも奪われることがなくなるのかが心配だった。父の口からその言葉がほしくて、何度も聞く僕に、
「お金は伯父さんが管理することになった。もうスナックには行けない」
 と父は言った。
 行かないではなく、行けないと父は言った。その違いが15歳の僕には理解できず、ただお兄さんが救われたと喜んだ。もうお兄さんは汚らわしいママにお金を奪われない。正義は勝ったのだ。

正義は常にすべての人を幸せにするわけではない。

 22歳になったとき、伯母さんの葬儀でお兄さんに再会した。お兄さんは僕を見ても何も言わなかった。葬儀の帰り道に母が当時の話を聞かせてくれた。
 僕がスナックに怒鳴り込んだことは社長経由で伯父さんに。伯父さんから父に伝わった。お兄さんの給料について、大人たちはすべて自由に使わせればいいと思っていたらしい。脳性小児麻痺と知的障害を持ったお兄さんには友達もおらず、遊ぶことも知らなかったが、大人たちにはもうそれ以上、お兄さんにしてやれることは何もなかった。その証拠に、当時、工場の社長が若い社員にお見合い話を持ってきて、何人かは結婚したらしい。そのことを知ったお兄さんは、
「ぼ、ぼ、ぼくも、お、おみあい、したい」
 と社長に言い続けていた。
「わかったわかった。順番な」
 そう社長は答えたが、お兄さんとお見合いしてくれる相手はいるとは思えず、社長は探そうとしなかった。

 それでもお兄さんはお見合いの日を心待ちにしていた。そんな中、ほかの社員に連れられて行ったスナックにはまってしまったのだ。スナック通いはすぐにお兄さんの唯一の楽しみになっていった。そしてママにたぶらかされて給料の大半をつぎ込むようになった。でも、僕がスナックに怒鳴り込んだことで、お兄さんのお金は伯父さんが管理することになってしまった。結果的に僕はお兄さんの唯一の楽しみを独りよがりな正義感で奪ってしまったのだ。

 怒りを我慢してコントロールするのは難しい。怒りは一瞬で沸騰するのに、我慢は簡単にできない。そのせいで誰かが大きな代償を払わなければならないときもある。お兄さんのこと以来僕は、何事も行動に移す前に、24時間、考えるようにしている。24時間後、怒りを我慢できているか。コントロールできそうなのか。怒りのエネルギーがまだ持続しているのか。自分ひとりで解決できるのか。どう足掻いても一人で解決できないのか。誰かの助けを借りれば解決でるのか。それらを考えてから次の行動に移るようにしている。今は、24時間あれば、人はたいていの事に冷静さを取り戻し、より正確な判断ができるのではないだろうか。

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