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映画「線は、僕を描く」を解説しちゃうぞ

映画「線は、僕を描く」を独断と偏見で解説しちゃいます。僕はここで「線は、僕を描く」というこのタイトルについて考えていきたい。

えっ、「僕は、線を描く」じゃないの?
逆じゃない?
ははん、そうやって読者の気を引くんだな。

僕ももちろん、最初は一般的鑑賞者としてそういう風に考えてそういう風に映画を映画を見始めたわけです。なんで「線」が主語なんだろうって。

でも映画を観ると、ああそういうことね、と腑に落ちました。
結構スッキリ構成されていたから、一度気づくとその観点で映画の色々なシーンが見えてきました。
僕は原作を読んでいるわけではないから、ひょっとしたら原作を読んでいる方には当たり前のことだったり、解釈としておかしいよってこともあるかもしれない。だけど、とりあえず、自分の解釈として、ここに書いていきたいと思います。

それでは以下で思う存分ネタバレしながら、自分の解釈を書いていきますので、まだ映画を見ていない方はここで読むのを止めて、映画を見てくださいね。

第一の問:なぜ「線」が主語なのか?

まず一つ目の問いを出します。それはこの作品のタイトルの「線は、僕を描く」という奇妙な日本語について。なぜ「線」が主語なのか? ということですね。

「線は、僕を描く」
おかしいですね。線は僕を描きません。僕が線を描く。これが普通の言葉の使い方です。

ん〜なんかでも、こういう日本語どこかで見たことあるなあ。そう僕はぼんやり映画を見ながら考えていました。そして思い出す言葉がありました。

「夜と霧」とちょっと似てる……?

「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである」

ん……。
これなんの言葉だっけ。

ああそうだ、フランクルの「夜と霧」だ。

「夜と霧」をご存知ない方に説明すると、これは結構「名著」と呼ばれるやつで
ユダヤ人としてナチスドイツの強制収容所に連行され、極めて厳しい環境を生き抜き、奇跡の生還を果たしたある心理学者が、その体験を振り返って描いた
そういう本です。

この「夜と霧」のテーマは言ってしまえば「絶望の中でどう生きるべきか」ということだと思います。そして、その答えとも言える、重要な一文が、先ほど引用した「人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。」というものになります。

「線は、僕を描く」
「人生が、我々に期待する」

なんだか似てませんか? 主語が逆じゃね?っていう感じのところが。普通だったら「僕は線を描く」だし「我々が人生に期待をする」ですよね。
どうだろう。僕はこれを似ていると思いました。

そして更に連想が膨らみます。
映画を見た人ならわかると思いますが、テーマが若干似てますね。

それは「絶望の中でどう生き延びるか」という問いであり「人生の理不尽さにどう立ち向かうか」という問いなのです。

そこで、取り急ぎ、「線は、僕を描く」という作品は「夜と霧」と同じようなパターンを持っているということを念頭に引っ掛けておきます。

「人生が、我々に期待する」ってどういうこと?

そうすると「線は、僕を描く」という言葉の意味は、「人生が、我々に期待をする」という言葉の意味を理解できれば、自然とわかってくる。そういうことになるんじゃないでしょうか。

ここで、フランクルの「夜と霧」について論じているある文章を引用します。

「問い」の方向を変えること。これはけっしてトリッキーな言葉遊びなどではない。「人生から意味を問われている」と考えることは、意味の決定をなんらかの超越性に委ねる身振りを孕んでいる。そして「空虚さ」をめぐる問いのほとんどは、この種の超越性(神などの超越者であってもよいが)に決定権を移譲するだけで半ば解決するのだ。

斎藤環「承認をめぐる病」

ここで言われているのは以下のことです。

「我々が人生に期待をする」という問い方から、「人生が我々に期待する」という方向性にすること。これによって「意味の決定」を超越性に委ねることができ、理不尽な人生の「空虚さ」という問題が解決される。そのため「人生が我々に期待をする」と考えることで、我々は人生の空虚さに立ち向かうことができる。

もう少し平たく言い直します。

人生というものは概ね理不尽なことが起こり得るものだということは皆さんも知っての通りです。
「線は、僕を描く」であれば自然災害によって突然、家族の命が奪われてしまう。
そこに対して我々はこう問いかけざるを得ません。
「こんな人生ってなんなんだ。一体なんの意味があるんだ。」

そう、僕たちは理不尽さに対して、つい、意味を求めます。
なんの意味もない悲劇にはあまりにも耐えられない。
だけど、人生の意味って実は考えるのが難しいんですよね。人生の意味はわからない。
それはなぜか。

そもそも意味というものは何か目的があって、その目的に対する手段として適切であるということに対して使われる言葉です。
例えば、「学校に遅れそうな時に走る」ということは意味があります。
これはなぜかというと「遅刻をしない」という目的を叶えるための手段として「意味がある」からです。
つまり、「意味がある」というのは、何か目的があって、その手段として用いられるものなわけです。

しかし、「人生」というのはそれ自体我々の持っているすべてです。
言って仕舞えば「人生」とは目的であって何かの手段ではありません。
手段でない。ですから、そこに意味を与えるのは難しい。

しかし、「人生」を手段にすることで、我々は「人生」に意味を与えることができるようになります。
その一つの方法が神様を信じるということですね。

神様を信じて、天国に行くことを目的とする。
その時に「天国に行くためによく生きる」という形で人生が手段になるわけです。
これは別に神様じゃなくても良いわけで、自分の子孫の繁栄のために頑張る……!とかでも良いわけです。
大事なのは、人生の意味を与えるためには、人生の外側が必要だということ。言い換えれば、これは、人生の意味を与えるためには、何か「超越的」なものが必要だということです。

フランクルの言葉は、人生という言葉にそうした超越性を委ねることで、我々に生の意味を与えてくれるものなわけです。

第一の問に対する回答:人は超越的なものに支えられて人生の意味を感じることができるから

以上の議論を踏まえると、「線は、僕を描く」というタイトルにも同じ構造があるわけです。

つまり、家族を失った絶望の中に生きる主人公の青山くん。彼は当然「人生の意味ってなんなんだ」ということを考えて前に進めなくなっている。そんな時に「線」が超越的なものとして彼の生に意味を与えてくれる。そして彼は動き出すことができる。

ん、これってどう言うこと? 

超越的なものに支えられて人生の意味を感じるということは、自分自身で自分自身の生を肯定している、というのとは少し違うわけです。

支えられて意味を感じている、と言うのはある種受け身なわけですよね。一方で、そうじゃない、自分自身で自分自身の生を肯定するという能動的な価値観っていうのも世の中にはある。

で、この、超越的なものに支えられるという価値観は、今、意外と当たり前じゃなかったりする。どっちかっていうと、能動的な価値観の方がメジャー。

例えば、今割とよく聞く価値観って何かって言うと「好きなことをして生きていく」と言う価値観ですね。

これはまさに、自分自身で自分自身の生を肯定するというあり方です。能動的な姿勢そのもの。

「線は、僕を描く」はそう言うあり方じゃない。「好きなことをして生きていく」と言う話ではない。そしたら、「僕は、線を描く」で良いわけです。これはもっと受け身な話。

実際映画の中で「僕は水墨画が好きだ……!」というような表現ってそんなにないと思うんですよね。むしろ、向こうからやってくるものとして撮られている。

つまり、超越的なものに支えられて人生の意味を見出すというあり方は、「人は受け身になることによって人生の意味を見出す」というあり方なわけですが……。

ん、それってどういうこと? 神様を信じて生きていくっていうこと? でも、神様はこの映画には別に出てこない。宗教の話じゃなくて水墨画の話だよね……。
ということが気になってくると思うので、もう少し、問いを掘り下げていきます。第二の問いです。

なお、余談ですが僕は自分自身で自分自身の生に意味を与えるって結構修羅の道なんじゃないか……?と思っています。そういうことをやろうとしたのは「神は死んだ」と言って「超人」を目指したニーチェとかなんじゃないかな、と思うのですが、最後発狂しちゃったりしてるわけなので……。「受け身」であることで生の意味を担保するって結構好ましいなと思います。

第二の問い:「線」とは何か?

線が超越的なものとして主人公の生を支えるという構造はわかった。じゃあ一体その「線」ってなんなんだい?

ここではそれを考えていきます。
まあでも作品の中で散々言われてますよね。そう「水墨画は命を描くんだ」というようなこと。
そう。水墨画で描かれる「線」とはまさに「命」と作品の中で言われているわけです。

じゃあ「線」ってのは「命」なわけ……?
概ねそういう方向で自分も考えていますが、わかりやすくするために僕はこれをこう言い直したいです。
「線」ないし「命」とは「日本的な価値観でいうところの『自然』」だと。
原作がどうかは分からないのですが、少なくとも映画では、明確にこの方向で構成されているように感じます。

これはどういうことかというと。
やっぱり人生に意味を与えてくれるような「超越的なもの」ってある程度神様っぽい存在として我々は普通考えるわけです。
で、水墨画という何とも和を感じさせる題材。
そこで、めちゃくちゃ雑にいうと以下の式が成り立ちます。

和×神様=八百万の神=自然

日本の神様って言えば八百万の神様ですよね。あれは要は自然には全て神様が宿るということで、神様が自然そのものだということです。

で、この「線は、僕を描く」ではやはり自然というものがどうも神様っぽい超越的な立ち位置で撮られているんじゃないか。少なくとも水墨画はニアリーイコール自然と考えて良いんじゃないか。そう仮説を置いてみると映画の色々なところが腑に落ちてくるわけです。

まず、今回の作品で主人公が水墨画で描くものって徹頭徹尾「植物」なんですよね。
「命」というからには動物でも良いんじゃないかと思ってしまうのは水墨画ど素人の私の感想な訳ですが、「植物」というものにも「命」を感じ取る姿勢はまさに、「自然」というものを「命」として捉えていることに他ならない。

そしてとりわけ「椿」は主人公の生にとって極めて大きな意味を持つ超越的なシンボルとして描かれているわけです。

また、主人公が元気をなくしているときに、畜産農家を回って活力を取り戻すシーンがあります。あれなんか、「水墨画の映画の話なのに、なぜ主人公は農家で活力を取り戻すのか?」と疑問に思うわけですが、これも明確に根底で繋がっていて、どちらも「自然」という「命」に活力を与えられているのですよね。

さらにいうと水墨画の賞の名前に「四季」が入っているのなんかも象徴的ですよね。水墨画はまさに自然だと。自然と向き合う行為。

そして超興味深いのが、主人公の家族の死因です。これ、原作では交通事故だったらしいのですが、映画では死因が洪水に変更されている

これの意図めちゃくちゃ明白じゃないですか?

「交通事故=人為」だとすれば「洪水=自然」です。

つまりこの改変によって、「主人公に意味を与えるのも自然であれば、主人公の人生に絶望を突きつけるのもまた自然」ということになるわけです。

ここで徹頭徹尾この映画では超越的なものとして「自然」が設定されていることが見えてくる。

我々がそれに対して「受け身」である自然

そして更に興味深いことが一つ。先ほど、日本的な価値観でいうところの『自然』と留保をつけました。この意味は、この自然は「我々は自然に生かされている」という形で語るところの自然なんだ、ということです。

つまり、自然に対して我々は「受け身」である。それは線に対して僕が向かう態度と同じものです。

この自然観ってすごい日本的なものだと思いませんか?我々は生きているのではなく、自然に生かされているのだ、と。

このことを象徴するシーンが実はたびたび出てきます。それは「いただきます」を言うシーンです。あるいは命に手を合わせるシーンと言ってもいい。

もし、もう一度映画を見る機会があれば注意してください。この映画、実はかなり「いただきます」を大事にしています。特に、一番最初に主人公が湖山の家で食卓を囲むときに主人公は「いただきます」をわざわざ言い直します。このシーンには、自然に対する向き合い方を主人公が「生かされている」と言う風に感じ始めていくぞ、と言う明確な意図が込められているのです。

水墨画についての映画なのに食事シーンが大切に描かれている。それにはこういう意味があったわけです。

この姿勢こそがまさに受け身であることによって生の意味を感得するという意味での「線は、僕を描く」というタイトルに通底するものなんですね。

まとめ

というわけで、「線は、僕を描く」というタイトルの奇妙さから、

・「超越的なものに対して受け身になることで生をの意味を担保する」という価値観
・「超越的な神様」とは我々が生かされる「自然」であるという価値観

をこの作品から取り出してみました。なんかまとめてみると当たり前のことですね。でもこう整理することによって死因を「交通事故」から「洪水」に変えたことや、「椿」を描くことが主人公にとって大きい意味を持つこと、そして「いただきます」のシーンの重要性まで一挙に見渡せるようになるわけですね。

今回noteを書いてみて改めて思うのは、やはり映画にはあまり無駄なシーンがない。一見なんのためにあるのか分からないような小さな描写にも製作者の意図がたっぷり込められているということです。もちろんこれが唯一絶対の正解というわけではありませんが……あくまで一つの説として楽しんでいただけたら幸いです。


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