画像生成AIが跋扈する世の中では論文が漫画で書かれるようになるのだろうか

書き散らし

未だに質の高い情報源として本は持て囃されている側面がある。例えば政治について質の高い情報を得ようと思ったらyoutubeでは限界がある。できれば入門書から始めても大学教授の書いた新書を読むのが望ましい、みたいな。もちろん、そこにはかつての「書籍」というもののブランド価値がまだ毀損しきっていないという側面もあるのだと思うけれど、それ以上に「書籍」という媒体が動画や漫画のような他の媒体と比較しても、用いる上での発信者側のハードルの低さというものもあると思う。

そもそも情報コンテンツとして質の高いものを作成していくには以下の二つのものにおいて高い水準を目指すことが必要である。
①伝えたいこと・アイデア
②伝え方・表現方法

そしてこれは僕の考えだが、「書籍」に情報コンテンツとしての高い地位が未だに認められているとすれば、それは②におけるハードルが低く、①だけ高い水準であれば十分にコンテンツとして成立するからである。

言い換えれば、文章を書くことは絵を描くことや動画を作ることに比べて難しいことではないということだ。もちろん、「質の高い」文章を作ろうと思ったらかなりの時間の修練が必要になるだろう。だが、差し当たり、文章であればとりあえず「わかる」水準まで運用することは、絵や動画に比べて容易であると思う。

それ故に、情報コンテンツにおいて文章における表現を選択したものは、②における修練の時間を短縮してでも①において修練を積み重ねることが可能になってくるし、また一つのコンテンツを作成する上でも①さえ持っていれば差し当たり一人でも短い時間で作成することが可能である。

故に発信者側としては文章を書くことがファーストチョイスになると思う。

ところが画像生成AIはその構図を変えてしまうのではないかと思う。

つまり、誰でも簡単に「わかる」「伝わる」水準の絵を作ることが可能になってくる。こうすると、文章で表現することと、例えば漫画で表現することの難易度が極めて近いものになっては来ないだろうか。

いうならば、誰でも無料で自分専属のイラストレーター・デザイナーを雇っている状態になった時、果たして誰かに何かを伝えようとして、文章オンリーという表現方法を選択するのであろうか。

そういう世界が実現した場合に、例えば論文は文章で書かれるようになるのだろうか。むしろ、ニュアンスを正確に伝えるための挿絵のようなものから始まって、徐々にイラストを多用したものになっていき、やがては漫画へと至るのではないだろうか。

もちろん漫画にはイラストだけではなくプロットも必要だが、やがてはこれもAIで「わかる」水準までは作成できるようにならないか。

あるいは動画すらAIで自動生成できるようになるのではないか。

すると、あらゆる情報コンテンツの表現方式が少しずつ変わっていくのではないか。文章の類は消滅し、どんどんと、イラストや動画において質の高い情報コンテンツも流通するようにはならないだろうか。

やがては行政文書・法律も文章の形で存在するのをやめるのかもしれない、というのは夢想だろうか。

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