「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 を読むために 私的用語まとめメモ
読んでても色々こんがらがって忘れちゃうし、そもそも記憶力がないので自分用にメモしただけのものです。じゃあそもそもネットに流すなよという話ですが、せっかく作ったので流しちゃいまして、しかし解釈合ってる自信が全く無いので、そこら辺は個々人のリテラシー的なやつで補いつつ、全くあてにせず、引用箇所を参照してください。
また野矢氏が独自に作った概念も特筆なく書いておりますので、そこも留意していただけると、まあ幸いです。
1. 語り得ぬものについては、沈黙せねばならない
『問題はその本質において最終的に解決された』(序文)
『論考』の目的…「われわれはどれだけのことを考えられるのか」という問いを答えること=思考の限界を画定することで、哲学問題はそもそも思考不可能であることを証明し、哲学問題の全てをその本質において一挙に「解決」=「解消」すること。「語りえぬが示されるもの」(=論理と倫理)の語り得なさを明らかにし、それを示すこと。
しかしここには問題点が二つある。
(問題点 1) 思考可能性の限界を思考によって画定することはできない
思考可能な領域と思考不可能な領域を分ける境界を思考しなければならないが、それはその限界の両側、つまり思考不可能な領域を思考することになるので、思考することはできないのでは?
→思考に対してというよりも、思考されたことの表現(=言語)に対して境界を引くことは可能。
(問題点 2) 言語の限界は思考の限界と一致するのか
→「思考不可能」な言語…思考する中で、「考えられない」と断罪されるべきナンセンスなもの、思考不可能な空虚な観物(ex. 丸い三角, 机にこぼしちゃったお茶)。
→「有意味とナンセンスの境界を言語において画定すること」が、思考可能性の内側に立ちながら、思考=思考されたことの表現=言語の限界を画定することとなる。
p19, p21, p22, p24, p27, p170より引用
2. 現実から可能性へ
『世界は事実の総体でありものの総体ではない』 (1.1)
「世界」… 現実に成立していることの総体。
「論理空間」… 可能性として成立しうることの総体。
「もの」…個体、性質(ex. 机, 赤)、関係といった項
p29, p32, p36より引用
/しかし「論理空間」は可能な事態の総体ではどうやら無いらしく、否定的事態は含まれないらしい→p103 l16, p107 l6
『事態とは諸対象の可能的結合である。』(2.01 改)
「事態」…現実に成立しているに関わらず、成立しうる可能のある事実。
「対象」…事態の構成要素。個体(性質(ex. 机, 赤)、関係も含むと野矢は考えている)のこと。
p38, p40より引用
『像はひとつの事実である。』(2.141 改)
「像」…様々な可能性を試す世界の「箱庭装置」。引っ越すときに試しに部屋の図面を書いてみることなどを言う。
「言語」…「像」と同意味。(人間が持つ「像」?)
「思考」…像によって世界の可能性を試してみる、試み。
p42, p45, p46より引用
/「世界」は「論理空間」(=「像」)を含み、また「論理空間」も「世界」を含む。これはパラドクスではない。(p46 l5)
3. 対象に至る方法
『対象を捉えるために、確かに私はその対象の性質を捉える必要はない。しかし、その対象の持つ論理形式の全てを捉えなければならない。』(2.01231 改)
「外的性質」…その性質が変化したとしても、性質をもつそれが変わったことにはならない性質。(ex. 身長、親子関係など)
「内的性質」「形式」「論理形式」…その対象に対してどのような性質の記述が適切なのか、その適切であれる性質の範囲。
ex. 「これは色を持つ」(内的性質)→「これは赤色だ」(外的性質)
「解明」…論理形式を明らかにする作業。我々が母国語を習得するプロセスもそうと言える。
p50, p52, p71より引用
「命題」…像として用いられるような文。
「名」…命題の構成要素。つまり対象のこと。通常に言われる「名」の意味ではない。
p60より引用
/しかし「名」に否定詞は含まれない。二重否定が成立してしまうのは「名」の特徴上、あり得ないからである。→p101 l10
『否定命題は、自らの論理的領域を、否定される命題の論理的領域の外側にあるものと記述する。』(4.0641)
/「論理語」もまた「名」に含まれない。(詳しくは8.で)→p167 l11
4. これでラッセルのパラドクスは解決する
「命題関数」…対象から真偽への関数。
ex.「xは犬である」
「ポチは犬である」→正
「ウィトゲンシュタインは犬である」→偽
p78より引用
「ラッセルのパラドクス」…wikipediaの床屋のパラドックスの説明が分かりやすーい。「髪を切る」という関係性=関数を「述語づける」に置き換えたバージョン。 「述語づける」での説明はこのサイトがとても分かりやすかった。
p83も参照
『ラッセルの誤りは、記号の規則を立てるのに記号の指示対象を論じなければならなかった点に示されている。』(3.331)
フレーゲの「関数」…関数は言語の外で働き、対象を入力し、出力されるのは真偽。
ex.「xは白い」にポチを入力する→真/偽
ラッセルの「関数」…関数は対象や命題内容において働き、対象を入力し、出力されるのは命題。
ウィトゲンシュタインの「関数」…関数は言語表現において働き、(その対象ではなくその)名を定義域とし、出力されるのは命題(「ポチ - 白い」)。
ex.ポチ関数「ポチ - x」ー定義域{「白い」、「走る」} 域値{「ポチ - 白い」、「ポチ - 走る」}
ウィトゲンシュタインの「命題関数」…同じように見える関数(ex.「xの母親」)でも異なる定義域を持っているのだ(ex.「パンくん(チンパンジー)の母親」と「ウィトゲンシュタイン(人間)の母親」)。つまり命題関数は定義域と独立に定まっており、両者は関数として異なっているとウィトゲンシュタインと考えた。そうすることでラッセルのパラドクス(そもそも「髪を切る」という関係性の先が自分の場合だったら関数そのものが異なる、みたいな感じ?)は解決した、とした。
→「操作」の観点による、パラドクスの解決の方法がp171から載ってる。
p90, p97より引用
5. 論理が姿を表す
『命題は論理空間の中に自らの真理領域を規定する。』(3.4 改)
/aとbの二つの灯りの点灯を考えたとき、
{b 点灯している}が現実であっても、
{a 点灯している b 点灯している}が現実であっても、いずれも真となる。
この両方のベン図の重なる部分が「真理領域」である。
/この場合、{b 点灯している}、{a 点灯している b 点灯している}は、
それぞれ命題を真にする個々の状況であり、「真理根拠」である。
「真理根拠」…命題に対して、それを真にするような個々の状況。
「真理領域」…真理根拠全体の領域。
p109より引用
ふつうの命題=「経験命題」は、「トートロジー」と「矛盾」の中間に存在する。
「トートロジー」…その真理領域が論理空間全体にわたるような命題。同語反復。現実に自体の成立不成立がどのようなものであろうとも、そんなことにはおかまいなしに、必然的に真となる状態。(ex.「(pかつq)ならばp」)ナンセンスではないが、無意味な命題。
「矛盾」…論理空間上に真理領域をもたない。つまり現実がどうであろうとも必ず偽になる命題。
「経験命題」…「トートロジー」と「矛盾」の中間に存在するふつうの命題。この現実世界がその事態を成立させている世界なのかどうかは、考えたり分析したりするだけでは分からず、経験的探求を必要とする。(ex.「ポチは白い」→真/偽)
「ナンセンス」…いかなる意味でも命題とは呼べない、命題もどき。(ex.「あのほらけ」「白いは重い」「ウィトゲンシュタインは2で割り切れる」など)『論考』にとって何がナンセンスなのかを見きわめることだ。
p120, p121, p122, p164より引用
「命題」が持つ意味…論理空間を真理領域と虚偽領域に分割する仕方
p127より引用
6. 単純と複合
「要素命題」…名だけから成り立っている命題。
「複合命題」…複数の「要素命題」に論理語(「ではない」「かつ」「または」)が加えて作られる命題。複数の要素命題を複合したわけではないが、否定命題「pではない」も含まれる。
ex.「N夫婦は動物園に行く」(複合命題)
→「太郎は動物園に行く」(要素命題)かつ
「花子は動物園に行く」(要素命題)かつ
「花子と太郎は夫婦である」(要素命題)
p129, p167, p130より引用
『対象は単純である。』(2.02)
「単純」…上記によってウィトゲンシュタインが要請した「対象」の条件。要素命題がなければならないという要請と結びついている。
p128, p131より引用
→なぜ要請しなければならないのかはp135〜
/p137 l14からの説明(単純と複合でその命題の出力が変わってしまう!)、p140 l9からの説明(明晰な思考への信頼!)、pp146 l13の説明(言語はどこかで世界と直接結びついてなければならない。単純者の要請とは言語と世界のこの紐帯の保証を求めるものだ!)が分かりやすい。
→だが、ウィトゲンシュタインは「単純」な事例を一つも挙げられなかった。それは要素命題の相互独立性の問題が起因している。
『ある要素命題から他の要素命題が導出されることはない。』(5.134)
「要素命題の相互独立性」…「明るい」や「青い」は単純であると思われる。しかし『論考』ではこれらの語彙を名に含めない構造となっている。
例えば「ポチは白い」は「ポチは黒くない」を論理的に帰結する。ところが『論考』では、要素命題はお互いにそのような論理的な関係が立たないことを積極的に主張している。これを「要素命題の相互独立性」と呼んでいる。
のちにウィトゲンシュタインはこれを『論考』の誤りと認めている。意味的に相互独立であることは切り離せるのだ。これが誤っていたとしても『論考』は根本的には破壊されないと野矢は考えている。
p145, p146より引用
7. 要素命題の相互独立性
『要素命題の特徴は、いかなる要素命題もそれと両立不可能ではないことにある。』(4.211)
「要素命題の相互独立性」の根拠→p149〜p153
『論考』にはその根拠は示されておらず、基本的な前提から派生するものではなく、それ自体が基本的なドグマらしい。この問題は「色の両立不可能性問題」に発展する。
「要素命題の相互独立性」を認めた場合の弊害→p161〜p164
命題の真理領域が制限されるが、要素命題が名の配列であることは変わらず、ナンセンスなものが排除され、特に弊害もない?
p153, p163より引用
『かくして、二つの要素命題は両立不可能でありうる。』(哲学的考察第68節)
「色の両立不可能性問題」→p153〜p161
「テーブルの上にリンゴが3個ある」は「テーブルの上にリンゴが2個ある」を含意することは論理的に成立している。だが「これは3メートルである」は「これは2メートルである」を含意することは無理である。木が同時に3メートルである状態と2メートルである状態は矛盾しているからだ。「90ホンの騒音は10ホンの静けさを含んでいる」なども同様である。
p157より引用
8. 論理はア・プリオリである
『論考』の出発点…現実世界を生き、日常言語に熟達すること。
↓
日常言語を分析し、再び日常言語を構成するという往復運動
分析の第一段階)有意味とナンセンスを分別する我々の言語直感を頼りに、あらゆる命題から要素命題と論理語を区別する。
分析の第二段階)要素命題を名と対象の対に分類し、名と対象の論理形式を切り出す。
構成の第一段階)名の論理形式に従って可能な論理形式のすべてが構成される。そうして作られた構成要素は、すべての可能な事態を表現するものとなっている。
構成の第二段階)自体の集合として状況が作られ、可能な状況の全体として論理空間が張られる。思考可能な論理空間が姿を表す。
↓
『論考』のゴール…思考可能性の全体を明確に見通し、自分のいる位置を明らかにする。
p165, 166より引用
『論理語は名ではない。』(4.0312)
→論理語は対象を表さず、論理語に関わる理論は世界に関する理論ではない。これはウィトゲンシュタインにとっての根本思想である。
「操作」…「論理語」(「ではない」「かつ」「または」)を、「名」では無く、要素命題やその真理領域に対する「操作」として捉える。
ex.「ではない」…真理領域を反転する否定の操作
ex.「かつ」…共通部分を取り出す操作
p167, p168, p180より引用
『操作の反復作用という概念は「以下同様」という概念に等しい。』(5.2523)
「以下同様」…「….」と表記される、我々が無限に関わるときの唯一のルート。無限にあるものに見切りをつけるときに使う言葉。ウィトゲンシュタイン曰く、最も重要な概念の一つらしい。
「操作」の反復適用(自然数に1を足し続けること)することはいつまでも続けれる。そう確信することで我々は唯一、「以下同様」を(自然数が無限にあること)を理解することが可能である。
p170, p171より引用
「関数」と「操作」の違い
目的:「以下同様」という地点に立つ
「関数」は定義域と一緒にあってのみ、意味を確定する。
ex. f(x) = x+1
→ これに出力を繰り返し入力することで「以下同様」を成立させることは不可能。出力が再び関数 x+1 に入力されるためには最初から定義域に、その出力の値が入ってないといけない!
「操作」は基底(操作を施す相手)と独立して、意味を確定している。
ex. 操作「+1」最初の基底{0}
→ 最初の基底に操作を行うことで、1が得られる。この1を再び基底に繰り込み、操作を行うことで、2が得られる。このように操作の結果は次々と新しく基底に繰り込むことが可能!
p175, p176より引用
『真理関数は実質的な関数ではない。』(5.44)
ウィトゲンシュタインは「pかつq」のような複合命題、およびそこで用いられる論理語「かつ」(「p」の真理領域と「q」の真理領域の共通部分を取り出す操作)のことを「真理関数」と呼ぶが、これは関数ではない。またウィトゲンシュタインは「真理操作」という言葉も用いるが、そちらの方が正当な用語であるというべきだろう。
p177, p178より引用
『全ての真理関数は要素命題に対して真理操作を有限回くり返しほどこすことによって得られる』(5.32)
「ア・プリオリ」…「経験」(論理空間における諸可能性の中のどれが現実として現れているかを認識すること、及び経験命題の真偽を確定するもの)に先立つもの。あるいは、検証に先立ち、検証を可能にするために前提にされていること。
また、ウィトゲンシュタインは「ア・プリオリ」なものこそ、『論考』が明示しようとしている「語りえぬもの」の中核であると考えている。
また、操作の働きは一定のものとして定まっているので、操作は「ア・プリオリ」なものであり、この操作の「ア・プリオリ」性こそが、論理の「ア・プリオリ」性にほかならない。
p178, p180より引用
「存在論的経験」…対象を切り出し論理空間を設定するために要求される原初的な経験。(ex. はじめて犬に出会い、「犬」という概念をそこから学びとる場面)
「認識論的経験」…論理空間が設定された後に成立する命題の真偽確定の経験。(ex. 「ポチ」や「傷」という概念を知っており、「あれ、ポチに傷がある」と発見する場面)
強い「ア・プリオリ」性…「存在論的経験」に先立つ、真理操作としての論理。
弱い「ア・プリオリ」性…「認識論的経験」に先立つ、論理空間。
p184, p185より引用
9. 命題の構成可能性と無限
「量化子」…量に関する論理語。
ex.「すべて」…「全称量化子」と呼ばれる。
ex.「存在する」…「存在量化子」と呼ばれる。
p191より引用
対象は無限にあるのか?→無限ではなく、「上限なき有限」
p197より引用
「多重量化」…複数の量化を組み合わせること
ex.「"すべて"の山は誰かそこに登った人が"存在する"」
「多重量化問題」…「いかなる命題も要素命題に真理操作を有限回繰り返し適用した結果である」という要請と、異種の多重量化(無限界の適用を必要)が合わないというフォグリンが言い出した問題→p203で解決
p201より引用
10. 独我論
「現象主義」…机の上に本があることから自分の頭痛まで、全てが私の意識への表れと捉え、「他の意識」「他の意識主体」は存在せず、自我のみが存在するという考え方。
「現象言語」…現象主義は「他の意識」が無いため、「私の意識」と言い立てるポイントもない。「"彼女"はひどい頭痛に悩まされている」を否定し、「"私"は少し頭が痛い」もまた"私"は消去される。「雨が降っている」など、ただ現れだけを記述する言語。
「独我論」…「世界は私の世界である」と主張する考え方。
「現象主義的独我論」…現象主義によって導かれる(スタンダードな)独我論。ウィトゲンシュタインが持つ独我論とは異なる。
p207, p208, p223, p209より引用
『私の言語の限界が私の世界の限界を意味する』(5.6)
→なぜ『私の』なのか?→飯田隆及び従来の答えの一つ p212
命題を構成する語の各々と実存の側との、
関連付けを行うのは「私」によってだから。
→野矢による三つの反論→p214
→野矢による答え→p216
対象領域は、私の存在論的経験に応じて定まるものであるがゆえに、
言語は私の言語であるしかないから。
p212, p213, p216より引用
「論理」と「言語」の違い
「論理」…経験に依存する基底を、ア・プリオリに定まった操作をすること。
「言語」…経験に依存する基底を、経験に基づく操作をすること。
「論理空間」とほぼ同義?
p216, p217より引用
存在論は語りえない。
1)「これらは存在する」(ex. =ウィトゲンシュタイン)と語ることはできない。トートロジーでもなければ偽でもないから。
そもそも命題が有意味であるには、名が表す対象が存在しなければなら無いので、存在を意味する命題は成立しない!
2)「あれらは存在しない」(ex. =ペガサス)と語ることはできない。存在しないならば、偽ではなくただのナンセンスになるから。
↓
論理空間の限界は語りえない。
論理空間の限界を語るには、存在する対象を語らねばならないが…
1) 論理空間に存在する対象を語れない(私自身の存在論の語りえなさ)
私が思考を展開する前提である対象領域それ自体を、思考することは不可能。
2) 論理空間に存在しない対象を語れない(他の存在論の語りえなさ)
他の存在論は他の論理空間を開くが、私の論理空間で外部を思考することは不可能。
↓
『この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。』(5.62)
存在論は語られず示されている。→独我論も語らずに示されている。
p218, p219, p222より引用
『論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。』(5.61)
「世界」(第一段階)…論理空間の中の現実化した一部分にすぎない。「事実の総体」ではなく「対象の総体」。
「世界の限界」=「私の世界」(野矢の主張)…(私の)論理空間。
→野矢によれば、「世界」=「私の世界」(=独我論の主張)には至らない!
p222, p223より引用
「存在論的独我論」…論理空間(=私の思考可能性)は操作と生(=対象との出会い=存在論的経験)によって決定し、限定される。そして世界もまた私の思考可能性に位置づけられるしかない。それゆえ、世界が用意する存在論は私の生によって与えられる存在論に等しい。そんなかなり独特な『論考』ならではの独我論。
p226より引用
11. 自我は対象ではない
「独我論テーゼ」 ー 世界は私の世界である
世界は私の思考可能性に限定される、という見方。
「主体否定テーゼ」 ー 私は私の世界である
「彼女は彼女の世界」「XはXの世界」というように「私」が特別な位置を持たず、独我論と独自に主張できる。
p229, p231より引用
「主体否定テーゼ」と論理空間の唯一性の要請によって独我論が導かれる。
p246より引用
「主体否定テーゼ」の否定的側面
「彼女は夕立が来そうだと思う」は彼女の心的事実に関する記述ではなく、その「思い」を成立させているのは「夕立が来る」という言語表現と夕立が来るという事実の間の像関係に他ならない。
→思考主体が対象として存在しない!
「主体否定テーゼ」の積極的側面
動作主体ではなく存在論的経験の主体たる私と、「私の世界(私の存在論=私の出会った対象たち)」の同一視(←なぜなのか p243, p244)
→思考主体・経験主体は世界そのものだ!
p239, p240, p241より引用
「意味の他者」…論理空間を共有していない他者。まあ、普通の他者。
p248より引用
12. 必然性のありか
論理や数学の命題はなぜ必然的なものとされるのだろうか。
1)「心理主義」
→論理とは思考の法則であり、推論傾向である。
⇒多くの人が間違うこともあるし、そもそも論理は思考のあり方を規則するもの。心理主義では論理の必然性は説明できない。
2)「プラトニズム」
→論理とは時間空間的規則から独立した「イデア的」なものである。現実の思考とは別のどこかに完全な論理が存在し、それを我々は部分的に把握している。
⇒『論考』が拒否。
3)『論考』(及び「論理実証主義」が誤読した箇所)
→必然性は、心理的事実でもイデア的秩序でもなく、言語に関わるものだ。
p252, p253, p254より引用
「論理実証主義」…経験に基づいたデータから論理的に展開されるものをまっとうな認識(科学的認識)として認め、そうでないものは悪しき形而上学として追放しようとする運動。プラトニズム的観点に立っている。
→「論理実証主義」は『論考』に影響を受けたが、根本的に異なっていた。
1)『論考』は存在論的経験だけでなく、神秘的世界での経験なども認める。
2)「論理実証主義」は科学的に語りえぬものを受け入れることを拒否したのに対し、『論考』は語りえぬもの(論理、自我、倫理)を沈黙のうちに受け入れようとした。
→この違いはどこから発生するのか?
「規約主義」…「論理実証主義」が『論考』から誤読した、必然性に関する「論理実証主義」の立場。「pまたは(pではない)」がなぜ必然的に真になるのかという問いに、「そう取り決めたからだ」と答えるような立場。
p255, p256, p257, p261より引用
「規約主義」と『論考』の違い
「規約主義」はもしずーっと議論を共有しない人がいた場合、派生的規約を証明するための直接的規約を再生産し続けなければならない。
『論考』はそもそも議論を共有しない人に説明する気などさらさら無く、すでに我々の議論を共有する者のみがその解明を理解できるとしている。
p268, p272より引用(ここはちゃんと読んだ方が良い)
13. 死について、幸福について
『世界とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。』(6.44)
『限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。』(6.45)
「神秘」「存在論的神秘」…拡張した論理空間を示すことはできず、ただこの世界にはこれらの対象しか存在しないこと。論理空間の限界はただ感じ取られることしかできない。そのことをウィトゲンシュタインは「神秘」と呼ぶ。
p285, p286より引用
『論理は超越論的である』(6.13 直訳)
→論理を欠いた経験は未節分でよくわからず、もはや経験とは言えない。論理は経験を成立させるために養成されるという意味で超越論的である。(超越論的はア・プリオリとは異なる→p287 l8)
→論理は「世界の総体であるがゆえに語りえない」(永井均)
『倫理は超越論的である』(6.421 直訳)
→倫理は「世界の外にあるがゆえに語りえない」(永井均)
______________________________
『論理は先験的である』『倫理は超越論的である』(6.13 永井均訳)
『論理は超越論的である』『倫理は超越論である』(6.421 奥雅博訳)
p287, p288, p289より引用
「永遠の相のもとで見る」「永遠の相のもとで見られた対象」…論理空間と共に見られた対象、論理空間の礎石として捉えられた対象。
→「ウィトゲンシュタインは小学校の教師をしていた」のようなこうした様々な命題の中でウィトゲンシュタインを捉える限り、ウィトゲンシュタインは生まれ、様々な変化(しかしそれは対象が変化しているのはなく、諸対象の配列が変化しているだけ!)を見せ、死んでいったただの一人の人物にすぎない。
しかし『論考』が行った分析(p303 l13)を遂行し、可能性の空間たる論理空間の構造を見てとるならば、、その時対象は不動の実態となる。これを「永遠の相のもとで見る」と呼ぶ。
p292, p293より引用
『倫理は美とひとつである』(6.421)
論理的に分析→永遠の相のもとで見る→倫理や芸術→実体に到達
p293より引用
/「美」…多分上記の芸術に当たるもの?つまり永遠の相のもとで見た後に生まれる、超越論的なリアクションの一つ?p290にて野矢も悩ましいと言っている。
『幸福に生きよ!』(『草稿』1916.7.8)
「幸福」を享受する三つの段階
1) 言語分析によって、永遠の相のもとで世界を現させる。
2) 論理空間とは私の生に根付いた者でしかないと確認する。
3) 善も悪も主体によってはじめて登場する。主体は美によって生きる意志を呼び覚まし、生きる意志によって幸福を生み出す。
p303, p304, p305より引用(よく分からん)
「世界」概念の三つの変容
「世界」(第一段階)…現実の事実の総体。
「世界」(第二段階)…不変の実体の総体。「永遠の相のもとでの世界」。
「世界」(第三段階)…事実、実体によって構成された「意志に彩られた世界」。
p306より引用
14. 『論考』の向こう
最後まで見てくれてありがとうございました。にしても「私は『論考』をウィトゲンシュタインの手から奪い取りたいのである」ってとこはやばいっすね。最終章はもうシンエヴァのゲンドウvsシンジばりの気迫で父殺ししてて、コープのレストスペースで読んでたんですけど、本当に泣きかけました。「ウィトゲンシュタインよ、他者を恐れるな by 他者」って感じなんすかね。いやー、凄いなあ。
まあとりあえず僕のメモは当てにせず、ぜひ書いてるページに飛んで参照してほしいです。ありがとうございました。
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