見出し画像

寂しさ


大嫌いな人がいます。
でも本当は大好きでたまらなくて、大事にされたかった。それを伝えられるほど、わたしは言葉を知らなかったし、勇気もなかったし、言えるような余裕がわたしにも相手にもなかった。

それでも、当たり前にあるはずだと思っていたものと、憧れ、それらと自分の現実はびっくりするほどかけ離れていて、わたしはどうしようもなく苦しかった。

でも苦しいなんてことも言えなかった。大好きだから嫌われたくなかった、迷惑をかけたくなかった、なにをどう話せばいいかわからなかった、あれ以上怒られたくなかった。

だからもう強くなろうと決めた。「負けたくない」という気持ちに全部全部シフトチェンジして、全部頑張って認めてもらえれば、わたしはきっと誰にも嫌われずに生きていける、そう思った。だから完璧になりたかった。

苦しかったし、わたしの問題じゃない問題をわたしの責任だと勝手に決めつけて苦しんでいた。あの頃の気持ちを思い出すように書いているけど、はっきりとは思い出せない。ただ苦しくてたまらなかったことだけは鮮明で、未だに苦しめられる。


この気持ちが「寂しい」という言葉にできるということ、この気持ちに「寂しい」と名前がついていること、わたしはそれを20歳を超えてから知ることになった。

大嫌いなのに、大好きで、でもいざ嫌われたようなあからさまなことをされたら悔しくて苦しくてたまらなかった。寂しかった。

どうしようもなくなって、主治医に泣きながら電話をして、泣きながら車を運転して、泣きながらメモを見せて、診察室の隅で丸くなってひたすら泣いたことを思い出す。
わたしはあのとき、「寂しい」という感情を知ったのだと思う。
「もう20歳なのに」と言っているわたしに、「20歳だからなに?寂しいって言っちゃいけないの?そんなことないよ、大丈夫、寂しかったよね」と言ってくれた主治医のおかげで、わたしはその感情を知ることができた。
もしかしたらそのときよりも前にその感情に出会っていたのかもしれないけれど、きちんと「寂しい」と表現できて、誰かに話をして認識できたのははじめてだった。

大人になるということは、寂しいということを飲み込んで我慢して頑張らなきゃいけない場面が増えていくと勝手に思っていた。それがかっこいいとさえ思ってしまっていた。そして、寂しさを隠さずにだすことも恥ずかしいと思っていた。

でもそんなことなかった。きちんと苦しんで、寂しがって、許される環境があるのなら話をして、ヒリヒリに触れること。そうすれば、寂しさでさえ力にできる。そう思った。
あの日、はじめて「寂しさ」を知った日を忘れてはいけないと思う。誰かの「寂しさ」に寄り添える人間でありたいとわたしはわたしに願う。

大嫌いな人にはまだ「寂しい」「寂しかった」ということを伝えられないでいます。
それにわたしは未だにその人に対して「寂しい」を隠しきれずに強く当たってしまう。いつも寂しさを爆発させてしまう。
でも、たくさん苦しんできたから、まだもう少し、寂しいを爆発させて生きてみようと思っている。それさえも力にできると信じて幸せになりたいと思う。


#メンタル #寂しさ #日記








わたしの文章で何かできそうなことがあれば、全力で力になりたいと思っています。