見出し画像

※シン・エヴァネタバレ【虚構と現実が繋がった瞬間】23歳オタクの独白

 虚構が現実世界をどのように照らし、あるいは繋がるのか考えるのは、この世でトップクラスに不毛な脳みその使い方である。
 我々が映画館のシートに座って二時間三時間もスクリーンに見やっていられるのは、僕たちの現実を気にしないでいられるからだ(気にしないように工夫がなされているのだけど)。
 それなのに、いちいち現実世界の話を持ち出して、脚本や監督の意図を「あーだこーだ」と憶測しては本末転倒。せっかく重苦しい重力から抜け出したのにまた地に足付けようとしている。しかも、わざわざ話を大仰にして。いいじゃないか。作品は作品。面白ければそれでいい。直感的に虚構とキャラクターを消費して、家に帰ってパンフレットでも眺めながら余韻に浸っていればそれで。ほとんどの人がそうしている。無惨様じゃないけれど。【鬼滅の刃】がヒットした理由も面白いからに他ならない。炭次郎はいいやつだし、善逸は臆病だけど決めるところは決めるカッコいいやつで、伊之助は世間知らずゆえに僕らが言えないことを言ってくれる。魅力的なキャラクターたちが、魅力的な世界を生きている。だから、僕たちは没入できた。死生観とか、認める主人公だからだとか。一々気にする必要なんてない。それは無粋というものだ。


 でも、この世には虚構と現実を結び付けないと仕方がない質の人たちもいる。脳みその前半分で善逸の成長を喜びながら、後ろ半分で彼にジャンプ主人公のシミュラークルを当て嵌めていた。【鬼滅の刃】の主人公は炭次郎だが、キャラクターとしての主人公らしさは我妻善逸も有している。では、なぜ炭次郎が主人公となり得たのか。より詳細に言えば、なぜ炭次郎が主人公を張りながらもヒットできたのか。そんなことを考えてしまうのだ。大二病患者。処方箋はたぶん確立されていない。治すためにはショック療法しかない。「お前、恥ずかしくてつまらない奴だな」。こんな言葉が一番効く。友人に言われた際、私も発作を抑えていられた。三日間だけ。


 ここからが本題。【シン・エヴァンゲリオン劇場版:||】の感想の話。
 まずは素直な感想。めちゃくちゃ面白い。シナリオ、映像、音楽。どれをとっても最高峰。【序】【破】にて積み上げてきた各キャラクターとの関係性が【Q】でリセットされてしまったが、それらすべてを第3村のパートで解放し、大人になったシンジが他者と関わることでどんどん掘り下げられていく。僕たちが長年頭を悩ましてきた謎や設定など、登場人物たちからすれば取るに足らないことであり、エヴァの世界で生きる者たちにとって他者とどのように明日を生きていくのか。それこそが重要な問題なのだ。フィクションの王道、SFとしての魅力もたっぷり。やっぱりエヴァ最高。

画像2


 思い出話をしようと思う
 2012年に公開された【ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q】から9年。僕らはエヴァの呪縛にとらわれ続けてきた。初めてエヴァに触れたのが【序】の公開前、2007年。奇しくも14年前。当時から別居していた母の家で勧められたTVシリーズからのめり込み、いわゆる旧劇を視聴。【まごころを君に】のシンジの塞ぎこみ具合にやきもきし、ラストの「気持ち悪い」の真意がよくわからず母に質問したりもした。冒頭シーンや「最低だ俺って」のシーンについて訊かなかっただけ、僕は利口だったのだと思う。文字と空気を読むのだけは早くからできる子どもだったのだ。文章は下手くそだけど。
 この1年後に【序】をDVDで視聴。TVシリーズを踏襲する脚本にやや退屈を覚えながらも、洗練された映像に没頭。小学校6年生時に公開された【破】にて完全にこじらせたオタクになった。2012年公開の【Q】公開時、僕は14歳。劇場で観た僕はシンジと同じ気持ちになった。背中を押してくれたミサトさんは顔を合わせてくれないし、アスカはいきなり殴りかかってくる。よくよく話を聞いてみたら綾波を助けたあの日から14年経って、世界は滅びかけていた。しかも、自分のせいだと言うではないか。せめてもの落とし前として、教えられたとおりに世界を元に戻そうとすれば再び滅びかける。そりゃ塞込むわ。


 ここで、読んでくださった方のほとんどは背筋に悪寒のようなものが走ったのではないだろうか。なにアニメの主人公と自分を重ね合わせた事実を語っているのかと。それって、ものすごく恥ずかしいことなのではないのか。その感覚は間違っていない。でも、寝ても覚めて少年マンガに憧れているのはたぶんギリギリ中学生まで許される。アナタが感じたうすら寒さの原因は23歳の私が独白しているからであり、これが例えば中学生がマンガに憧れて将来の夢でも語っていれば見方が180度変わっていたかもしれない。
 長く続いた作品には長年のファンが付く。ガンダムしかり、マクロスしかり、ヱヴァンゲリヲンもしかり。僕らは憧れて大人になった。手放すことも断ち切ることもできず、僕らはずっと子どものまま。あるいは年をとって働けるようになって。手に入れたお金をつぎ込んで、結婚も恋愛もろくにせず、都合のいい時にだけ大人を振りかざす。ガキの心持ったオトナと言えば格好もいいが、その実は大人になり切れない、14歳から時が止まったままの子どもみたいなオトナなのだ。


 キャラクター消費が最初に観測されたのは初代マクロスの劇場作品【超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか】だそうだ。当時は今よりもっとルールが緩く、スクリーンの写真撮影も見逃されており、とある女性キャラクターのシャワーシーンでシャッターを切る観客たちの姿を観て「金になる」と判断された、らしい。らしいというのは、この話が大学の講義中に出てきた与太話であり、私自身エビデンスを確保できていないからである。
 私たちはキャラクターを消費している。消費し続けてきた。マクロスシリーズならば、リン・ミンメイ、早瀬未沙、ミレーヌ・フレア・ジーアス、ランカ・リー、シェリル・ノーム、そして現行のΔでは数多くのヒロインを有していて、【F】の人気は根強いが最新作が出るたび、いわば顔役のヒロインたちは更新されてきた。


 しかし、エヴァは違う。これがまたヱヴァンゲリヲンの特殊性ともいえるのだが、我々は25年(僕であれば14年)ものあいだ綾波とアスカに恋をし続けてきた。最初は彼女たちと同い年であったかもしれない。だけど、私たちは年をとる。14歳が14歳に恋心を抱いてもおかしくはないが、23歳が14歳に恋慕を感じていたら、これはすごく気持ち悪い。

画像1

(アスカ派でした。でした!)


【シン・エヴァ】を観た人は口々に「これは私たちにヱヴァンゲリヲンを卒業しろというメッセージだ」と語っている。僕もそう思う。100人観れば99人は同じ感想を抱く。それほどまでにはっきりとしたメッセージだった。
 虚構のランプが現実をどのように照らすのかという話を冒頭でしてきた。【シン・エヴァ】が照らしていたのは間違いなく僕たちだ。同時に創作の主流からわずかに外れていた鏡という存在が、ここで再び姿を見せた。鏡=ゲンドウは僕たちを写しだし、ランプ=シンジによって割られていく。それはもう清々しいほどに。僕たちの好いていたアスカやレイも、彼女たちの望む場所に進み、憧れていた全ての汎用人型決戦兵器人造人間ヱヴァンゲリヲンは役目を終えて消えていく。


 いつだったか、某ゲームの映画が少しだけ炎上した。僕はその作品を観ていないので確かなことは言えないが、理由は「現実を意識させたシナリオ」構成だったからだと思う。それならどうして、今回の【シン・エヴァ】は許されたのだろう。完成度。映像美。繰り返すが、私は件の映画を観ていないので明言できないが、おそらく少し前から僕たちは自覚していたからかもしれない。TV版から謎多き設定に惹かれ、考察を繰り返し、毎年発売されるグッズを求めてきたが、終わりが近づくことに。思えば旧劇からずっと僕らは照らされてきた。当時は理解できず、あるいは目を逸らしてきた。「気持ち悪い」と言われても真意には辿り着けなかった。もしかしたら気づいていた人もいるかもしれないが、少なくとも僕は耳を傾けようとしていなかった。

 あのときはまだ僕たちは子どもだった。だから気づけなかった。でも、【序】から14年経って。ジェットコースターのような【Q】から9年が経って。僕らは受け入れられるだけの精神力を身に着けることが出来ていた。「9年も待った」とは言うけれど。もし、【Q】から【シン・エヴァ】の公開が3年ほどしかなければ、抱く感想はまた違っていて、受け入れられなかったかもしれない。これこそが虚構と現実が繋がった瞬間だ。虚構側にそんな作為など一切ないのに、僕らは勝手に結びつける。【シン・エヴァ】における一番のこの現象の発露は、実のところ9年の歳月が齎した僕たちの精神的成長なのではないだろうか。〈了〉
 
 全文は上記で終了していますが、欲に目が眩んでいるので有料用に一文を下記に残します。特に内容はないので、無視してもらって大丈夫です。

ここから先は

37字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?