無敵の人、京王線、これからのこと(雑記)

10/31。読書会が終わり家に帰るとまだ息子が起きていた。22:00を過ぎていた。私がシャワーを浴びて寝室に入るともう寝ていた。妻と衆院選の開票速報をNHKの番組で眺める。開票の結果と並行して、京王線で起きた無差別傷害事件についての報道も行われていた。国領という駅は私が塾講師時代に毎日使っていた駅だし、今でも皮膚科の通院のためによく使う。他人事ではない空気がすぐそこに迫っている。緊張感のなかで衆院選を見届けた。

11/1。家族で久しぶりに遠出をした。京王線で新宿へ出てそこから中央線に乗り換え…と子供には長旅だが楽しんでくれていたようだった。
道中、新宿駅へ向かう特急電車の窓から国領駅を見た。昨日のニュースでは人が窓から溢れ、駅の周りには救急車やパトカーが集まり、非常時の光景があった。しかし私が通過したそのときにはもういつも通りの国領駅だった。
京王線の車内ではこんなアナウンスが流れた。

「……昨日発生した傷害事件により、ダイヤ乱れが発生致しましたこと、大変ご迷惑、ご心配おかけしました……」

帰りの車内でも流れた。長旅から帰ると子供は疲れも知らずに22:00まで起きていた。寝かしつけたあと、テレビをつけると事件の詳細について報道していた。当時の状況や犯人の動機が少しずつわかってきたようだった。

事件の際、乗客が窓から脱出を試みたのは乗務員の判断でドアが開かなかったからだという。しかしこれは仕方がないだろう。テロ対策などは今までいくらでも準備をしてきただろうが、今回の事件は少し質が違う。乗客が車掌への非常通話を試みたが周囲の騒音のせいで会話が通じなかったというのも、こういった事態に陥らなければわかりようのないことだ。人が急病で倒れた、不審物を発見した、などではない。今まさに人が殺されようとしているのだ。

犯人はいわゆる「無敵の人」らしい。死刑になりたくて事件を起こしたという。同様のケースとして思い浮かぶのはやまゆり園の事件、小田急線の事件、そして秋葉原の無差別殺傷事件だ。

アメリカであれば類似のケースは銃の乱射事件だろうが、本当に、日本が銃社会でなくてよかったと思う。

無敵の人。己の命すらも惜しまず、ただ「死刑なるため」「どうせ死ぬなら他人も殺す」などの理由で他者を巻き込む。やまゆり園の場合は極度の優生思想があったが、この偏った思想による倫理のスルーも無敵の人を産む。

どうして無敵の人が生まれるのかと考えると、時代の流れが利己主義に偏っているからだろうと思ってしまう。ある種のアナーキズムに近いのかもしれないし、その先には全体主義と繋がるところもあるかもしれない。

今後、こういうケースは増えていくだろう。電車というのは高速で移動するために、無敵の人が動くにはとても都合のいい密室だ。テレビに出ていた専門家曰く「犯罪を事前に阻止するしかない」とのことだが、恐らくは「監視カメラの設置」などの措置を遠回しに言ったのではないかと感じた。

監視社会の方向へ進んでいくのだろうか。それとも、SF作品のように個人個人の犯罪係数などを算出していくのだろうか。

以前、Eテレ「こころの時代・宗教」で奥田知志さんという牧師の方が語っていたことがとても印象的だった。ある信徒の女性が事故で障害を負った娘のために生涯を捧げて介護をしてきたという。その中でやまゆり園の事件の報道に触れ、植松死刑囚の「障がい者を抱える家族はかわいそうだ」という発言に対して激しい憤りを感じ、「私は娘を介護することがとても大変だった。でも、不幸ではなかった」と奥田牧師に語る。

人と人のつながりのなかで生きることはしがらみが多い。自分のやりたいようにいくことなんて一割もない。もしもそれができていたとしたら、そんなのは子供のときだけだ。無償の支えによってできていたにすぎない。つまりは保護者だ。国家による補助や、周囲の大人たちの支えだ。それは当然のことかもしれないが、簡単なことではない。人が自分を生かしながら他者も生かすということは、想像の範囲を超えて大変なことだ。

子供はひとりでは生きられない。子供が成長するにつれて、今度は私が大変になる順番なのだと思った。子供の成長を手助けすることはとても大変だ。赤ん坊のときは彼の命が続くことすら信じられず、安堵とは程遠い日々を過ごした。彼の身体リズムと親のリズムは全く一致せず、多くの時間が彼のために費やされた。
成長して手が離れ始めると、今度は成長の具合が気になり始める。集団生活のこと、教育のこと、身体機能のこと、さまざな問題が頭を悩ませる。風邪を引けば親も家から出られない。しかし、私は子供が産まれる前よりも自分が幸福であると断言できる。

奥田知志牧師は言う。「世の中はもっと大変になるべきだ」他者の大変なことをもっとみんなで背負いこむべきなのだと。それは凄く辛く、自分の生活の多くは犠牲になるだろう。しかし、そうした大変さのなかで人は多くのことを学ぶ。そういった体験のほうが利己的に生きるよりもどれほど豊かなことだろう。

多様性が叫ばれる世の中だ。しかし多様化を対話無しに進めていけば必ずどこかで矛盾や軋轢が生まれ、むしろ生きづらい世の中が生まれる。

何者にでもなっていいと理想を語られながら、何者にもなれないという現実のなかに現代人は生きている。七夕の短冊飾りにはどんな夢を書いてもいいと教師は言うが、その夢が叶わなかったときの対処の仕方を教師は教えてはくれない。

困難な時代にあっては価値観が揺らぐ、と人は言う。しかしその社会全体に共通する価値観というものはもう存在しないに等しい。倫理も存在しない。

「どうして人が人を殺してはいけないのか、と子供が言って困る」という大人の悩みを10年前によく聞いたが、そのときの答えで衝撃的だったのは「殴って黙らせる」だった。

色んな面からの答えがあるだろうが、この問いは焦らずにじっくりと考えるべきものだったのではないかと今更になって思う。物事の価値が根っこの部分から揺らいだ時代だからこそ、命の価値というものも一度原点に立ち戻って考えるべきだった。過去から人はエンターテインメントとして死刑を楽しんでいたし、心中が流行った時代もあった。報復の方法として自爆テロが存在する現代に、他者の価値観ではなく自分なりに命についての答えを出しておかなければ、誰であれ人を傷つけることも、自分を傷つけることも厭わなくなる。

そうでなければ、きっとまた誰かにトータルされてしまう時代が来る。そうなる前に、どうして無敵の人が生まれてしまうのか、どうして命を軽んじるのか、そもそも命の価値とはどのように決定されるのか。実存主義的に考えるべきなのか、虚無主義からスタートしていくべきなのか。このことについて個人個人が考えなければいけない。

被害にあった人たちの心中を思うと、本当に恐ろしい。誰であれ被害に合うかもしれない、隣にいるのは無敵の人かもしれない、という暗い共通認識の時代が来てしまうのかもしれない。

共通認識がひとつのトータルな制度を生んでしまえば、もう後戻りはできない。

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