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ゆる仏教徒である我が家の子にクリスマスを経験させるか問題

私と夫はゆる仏教徒である。
いわゆる一般的な日本の人々と同じように、お墓参りは寺に行き、正月は神社に詣で、結婚式を教会で挙げた。そういった人々の多くは自身を無宗教だと思っているらしいが、私はこれは「重宗教」あるいは「多宗教」ではないかと考えている。それはさておき、私達夫婦はどちらかというと仏教と神道に比重を置いて暮らしている。
例えば、息子の保育園はお寺の保育園を意図的に選んだ。夫の実家のお盆の棚経や法事は欠かさず参加して読経もする。正月を除いても年に数回は近隣の比較的大きなお寺や神社に出かけては賽銭をあげて祈る。国内旅行では必ずお寺か神社に立ち寄る。夫は地域の歴史ある神社や寺の保存会に入って活動している。
そんな夫婦なので、クリスマスはせいぜい知人の店の売上に貢献するべくケーキやチキンを買うくらいである。

しかし、今年は息子がついに4歳になり、「クリスマスにツリーを飾るとサンタさんからプレゼントを貰える」と理解してしまった。厳密にはそういうルールではないと思うが、息子がキッズYouTubeや保育園のお友達の話から理解した法則はそうだ。

ハロウィンを過ぎ、買い物に出かければどの店でもクリスマスの飾りを見ることができる。その度に息子が言う。
「おかあさん、あれ、あの木、まだ買ってないね。プレゼントもらうから、買わなくちゃね。」
大抵その場に夫はいない。
帰ってから私がその話をすると、夫は言う。
「え?いいよ、しなくて。うち仏教だし。」

日本では、子どもがクリスマスにプレゼントを貰うことがもはや一般的な慣習になっているのは理解している。私だって毎年もらっていた。家にツリーもあって、兄弟で飾り付けをした。
しかし、いま私は自分が仏教徒であるという自覚がある。まったく敬虔さはないし、肉も食べるし酒も飲むゆるゆるさだが、仏教の教えを素敵なものだと思って、積極的に心に留めている。YouTubeで法話を聞く日さえある。
が、息子は違う。
息子がやりたがっている「4歳のクリスマス」の経験を奪う権利は私たち親にあるのだろうか。いや逆に、その望みを叶えることははたして親のつとめなのだろうか。もし今、そして来年、クリスマスに何もしなかったら、息子はお友達と自分を比べて何を感じるのだろうか。
去年まではなかった悩みが生まれてしまった。

もちろん、多くの仏教徒はわたしがクリスマスを祝ったところでなんとも思わないだろうし、むしろ異教への寛容さは私が仏教を素晴らしいと思う最たる要素でもある。
ツリーを買ったところで夫が怒るわけでもない。
たぶん近い内に小さめのツリーとささやかなプレゼントを用意するのだろう。ただ心のなかに「周囲に同調しなければという不安に耐えられず、異教の行事をやっているな」という気持ちを私が勝手にかかえているだけだ。

だから今年のクリスマスは、アイデンティティに反する行動をする気持ちを味わう、という貴重な経験をさせてもらおうと思う。

なお、キリスト教を批判する意図は一切ない。その根拠として、私がこれまでに読んだ本のうち、名著だと思うベスト3に遠藤周作の『イエスの生涯』が入っていること、人生で初めて小説以外で涙した作品であったことをここに記しておく。

#クリスマスの過ごし方


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