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現代人が無駄に忙しいのは「販促」のせいなのではないかと疑っている

技術がこれだけ進歩しているのに、どうして私たちはどんどん忙しくなるのだろう。
と、かれこれ数年間ずっと考えている。

そんなときにふと病院の診察室で、製薬会社のノベルティらしき文房具を見かけた。ドクターを待ちながら、「あー、このマグネット単価いくらくらいなんだろ。ボールペンもカレンダーも。文房具を安くしないと売れないのも道理だよね、タダであちこちで配られてるんだから。MRの人もマメにこういうの配って大変だなあ。そのコストも医療費に乗っかるんだから、もとを辿れば国のお金から出てるわけか。税金も社会保険料も高くなるわけだよなあ。」
などと思っていて、ひらめいた。
世の中にあふれる販促物の大半は、いらないんじゃないか?
じゃあそれを作るのにかけた労力も、いらないんじゃないか?
そのコストが乗っかった商品価格は、無駄に高いんじゃないか?

ほんの1年前まで、とある企業の販促部門で働いていた。競合の商品より少しでも多く売れるために何ができるか日々考え、実行するのが仕事だった。
その頃の私は「自社の商品に対して、商品の持つ機能以上の付加価値を持たせることが販促の仕事だ」という風に教わっていた。
仕事を辞めて1年、その教えに疑問を持ってしまった。

実は、もう随分と長い間、自宅にテレビのない生活をしている。必然的にコマーシャルを見る機会が減った。その上、バスや電車などの公共交通機関も使わないので、交通広告も見ない。買い物をほとんど通販で済ませるようになり、店頭のポップやポスターも見なくなった。
物を買う時に参考にする情報はもっぱらSNSと商品レビューだ。ショップが記載している商品説明と、使った人の口コミを読み比べて、買うかどうかを決めている。大抵の場合、それで事足りる。
正直、販促部門にいてはいけないタイプの人間だと自分でも思っていた。
そんな暮らしをしていたからなのかもしれない。販促とか広告とかって本当は必要ないんじゃないか、と、思ってしまったのは。

例えば私のいた職場では、広告代理店が企画を立てて筋書きを考え、出演してくれるモデルを厳選し、動画やスチールの撮影をして、コピーライターが渾身のコピーを添え、デザイナーが仕上げ、さらに媒体費を支払って世間にそれを見てもらっていた。
その過程でものすごい人数が動いて、そこには人件費が発生する。プロの集まりだからギャラは高い。芸術家かと思うくらいのこだわりようで仕事に向き合う人もいる。発注主も、自社の「ブランド」を創るために真剣だった。
オフィシャルショップで買ってくれたユーザーには、再購入を促すためにDMやメールをせっせと送っていた。そこにも担当のデザイナーやコピーライターがいて、一通のDMにとてつもない時間をかけて制作していた。時には限定のノベルティグッズをつくって、商品とくっつけて販売したりもした。
でも。
そんなものがなくたって、ユーザーの一部(もしかしたら大半)は、商品を買ってくれる。購入者の感想はほとんどが「この商品で悩みが解決された」「使い心地が良い」など、製品の機能価値についてのものだった。広告動画のクリエイティブデザインが素晴らしかった、なんて感想は見たことがない。メーカーとしても、商品を使ってもらうことが目的なのだからそれで良い。
「ブランド」だの「精神的付加価値」だの素敵な言葉で表現しているけど、製品の機能以上の価値なんてほとんど幻想に近いとも言える。その幻想を作り出すために、あるいはその幻想にお金を払うために、私たちは忙しく働く羽目になっている、とも。

じゃあなぜそんなに労力とお金をかけて販促をするのか、つきつめて考えてみると、理由はひとつしかない。
他社よりも選ばれるため、である。
作った製品が売れ残りすぎると、製造にかかるコストを賄えない。かといって、少量生産では単価が上がってしまう。ある程度大量に作って、大量に売るために、あるいは少しでも高単価で買ってもらうために、限られたパイを他社と奪い合うことになる。
いくら新しい市場を開拓しようが、世の中にない新しい製品をつくろうが、よほどの独自技術でない限りすぐに他社が参入してくる。もちろんそこで競争することで技術は磨かれ、場合によっては市場価格が下がるので、ユーザーにもメリットはあるわけだが、その先にはメーカー各社の生存競争の中で前述のようなコストが発生し価格に上乗せされる日がやってくる。価格に乗せないなら作り手側が安く使われることになるのだからなお悪い。

もし、そういった「売り込むため」の活動の大半がなくなって、製品やサービスや販売店がある程度淘汰され住み分けされたら、モノやサービスの価格は、人々の生活に必要なコストはどう変わるのだろう。生活必需品の価格に関してはかなり下がるのではないだろうか。
その過程で職を失う人が、人手不足に困っている社会インフラや、利用価値のあるモノを造る側に移動したら、世の中はどう変わるのだろう。もっと低コストで、少ない労働時間で、暮らせるようにはならないだろうか。
それともやはり、資本をもっている人のところに富は集まってしまうのだろうか。自由競争が人を忙しくするのだとしたら、競争に負けた人は忙しさからは開放されないのかもしれない。
社会全体の富の量は増えたはずなのに、その富を奪い合って時間を浪費する構図はいつまで続くのだろう。

販促関係の仕事を、誇りをもってされている方に対しては、失礼な内容になってしまったかもしれない。でも、それでも私は問いたい。第三者視点で見て、その販促活動は、ユーザーからお金を取ってまでやる必要があると言えるくらいの社会的意義を持っていますか?と。
関係者皆が自信を持って「ある」と言えるものは、ぜひやってほしいと思う。なぜならそれは単なる販促活動ではなく、資本主義社会の仕組みの中で磨かれる芸術だと思うからだ。

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