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正月とレイリー散乱(2022年1月1日の日記)

・あけましておめでとうございます。

・去年は静岡にある実家の2階から見た初日の出を、今年はちゃんと写真に収めたいと思い、家族に地元の海まで連れて行ってもらった。
海は車で10分もかからないところにある。
なんなら実家の2階からでも見えるが、やっぱりライブと初日の出は最前で見たい。ライブはまだ最前で見たことはないが。

・当たり前だけど、海は寒かった。本当にここは静岡なのかと疑うほど寒かった。
でもこの寒さが自分の存在を確かにしている、とも思う。「寒いと感じている自分がいる」ということが確かになる、と言った方が正しいか。
ここ数ヶ月、何が原因なのかわからないが、記憶が曖昧だ。記憶そのものが欠落しているというよりは、その記憶に対しての実感が全く無く、それが本当に自分が現実(夢の中や妄想の中などではなく、という意味)で体験したことなのかどうかがわからないということがあまりにも多い。
そのせいで自分の存在までもが自分の中で不確定になってしまう。自分の存在を疑うことなく確立させておくことができなくなるのは、思っているよりも遥かに不安なことだし、正直気が狂いそうだ。
最近はそれを止めるために身体的な苦痛を伴う行為(今回は寒さを感じること)をしているような気がする。
僕の中では、痛みだけが現実らしい。
恥ずかしい言い回しだ。中学2年生か?
でも明晰夢を見た時は頬をつねってみると夢か現実かがわかるとも言うし、あながち間違ったことではないのではと思う。
綺麗なだけの景色と、それに伴う心地よい感情は夢の中でも見られる。というかそれらしか無いような状況なんて夢の中くらいでしかあり得ない(と思う)。
美しい光景を見て湧いた苦い気持ちが、それこそが現実なんじゃなかろうか。

・僕は去年、2回失恋している。
痛かった。そのことを僕は実感をもって現実での体験として覚えている。
失恋した時が一番現実を生きていたはずだ。

・浜辺に立って、伊豆半島から今年初めて顔を出す太陽に向けて何回もシャッターを切った。青とオレンジのグラデーションは日の出前に家を出ていた高校生時代に何回も見ているが、1月1日に見るものはなぜかいつも特別に感じられる。この日の空気が日常の外側にはみ出ているからかもしれない。
空の色が変わって見える世界に生まれてきてよかった。レイリー散乱に感謝。

・ついでに元旦の富士山も撮っておいた。去年の冬は降水量が少なく、雪も積もっては溶け、積もっては溶けを繰り返していたが、今年は綺麗に冠雪している上に、雲がかかっていない。最高のコンディションだった。
富士山越しの初日の出は静岡からは見えないが、海と富士山の組み合わせは(富士山のある県の中では)静岡からしか見えない。初日の出とセットで楽しめば一粒で二度美味しい。これは山梨では味わえない元旦だ(個人の感想&幼稚なライバル心)。駿河湾と富士山を一緒に描いた画家は全員天才だと思っている。

・今年は大学を卒業し(予定)、社会人になる。なってしまう。
ちゃんとした大学生活は鬱とコロナに潰されて、実質1年半〜2年くらいしかキャンパスには通えていない。それでも時間は勝手に過ぎてい(きやがる)し、年もぼーっとしていればほとんど勝手に取っていく。
どうせ今年も死にたくなるし、何もかもどうでもよくなると思うが、その度に僕と一緒にいて楽しいと思ってくれる人たちのことを想って後ろ髪を引かれて、結局またこの世に居座るんだろうな。
これからは予め確定で鬱になる時期を周囲に伝えておき、休む時はちゃんと休んで生きていけたらと思う。
あとしっかり助けを求めたい。
そういう意味で大人になりたいです。

僕の中では、痛みだけが現実らしい。

・これめっちゃ恥ずかしくなってきた。もしかしたらその内この文だけが消えて公開されているかもしれません。すみません…。

・今年も僕をよろしくお願いします。

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