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フィリピンの山奥で見た宗教のちから

どうももよです。先週に引き続Baguio、Banguetの旅を追憶します。
ちなみに今日は珍しく5時代に起きていて、友達と一緒に朝ごはんを(作ってもらって)食べるという有意義な朝活をしてきました。

さて、タイトル通り、私はこの旅でさらに宗教というものを考えることとなりました。トビタテの研修にて勧められた日本の宗教観を学ぶのに役立つ動画(その動画を見たい方はこちら)の内容も踏まえながら私が一つの山あいにある地域で見たキリスト教の礼拝についての感想を、ここに記録しておこうと思います。

日本の宗教観ってなんなのか

海外に行くと必ずと行っていいほど話題になるだろう、日本人の宗教に対する考え方。トビタテの研修でもこれについてみんなで考えた頃があります。学校で宗教について学ばない、家でも宗教について学ばない。無宗教と答える人が4割いる、キリスト教でもないのにクリスマスを祝うなどあげればキリがありません。ここフィリピンでキリスト教などの宗教に触れる前に、上に紹介した動画を見たり普段の生活を振り返ったりしてみた結果、私は日本の宗教観について次のようなことを考えていました。

まず1つ目は、
日本人にとって宗教が拠り所の人はそんなに多くないけれど、お寺や神社は物理的にも精神的にも不変という性質を持った拠り所になっている。
ということです。

日本人が窮地に立たされた時にやる神様お願い!っていうあれは、宗教ではなく単なる神頼みであり、心の拠り所と言えるような文脈は持ち合わせてないと思っています。自分的には。

しかし、私がお寺や神社に行く時(私はよくお寺に行きます)、そういう時はなんとなく疲れてたり、モヤモヤしていたりして、悩んでいる事柄から離れたい時です。ファミレスで一人でぼーっとするより堂々と自分を解放することができ、なおかつ、いつもその門が開かれていて自分と一定の距離を保っているという安心感があります。自分で自分を保ちながら安心していられる場所、とでもいいましょう。いつもそこにある、いつもそこでは同じ空気が流れている。ということが変化の中で悩んでいる自分には時としていい薬になる、そんな風に思います。だからこそ、私たちが仏教や神道のことを詳しく知らなくてもそこに行くことで安心することができます。これは宗教としての役割を担っていると言えると思います。

そして2つ目は、何物も受け入れて共存するという信念がベースにある、ということです。

相手の宗教をあまり気にしないのは勿論、自分が何教に属しているという帰属意識も少ない日本人。しかし、その一方で何教でもいいやん、少なくとも私たちは日本人です、みたいなところがあると思います。日本ってのは宗教に対して寛容でしょうが、宗教とは別にコミュニティベースの掟だったり言い伝えだったり、共同体としての人間が作りあげてきた価値観を大事にしてるんじゃないかなぁと。そしてそれが、宗教の目的である幸せに暮らす、安心して暮らすということと結びついている、あるいは以前は結びついていたのではないかと思います。

ここでフィリピンの宗教観を振り返ってみるか

ここからは私が体験した話であり、これがフィリピン全ての宗教観だとは言えないことを承知の上で読んでもらえればと思います。

私が訪れたのはカトリックの教会ですが、山のてっぺんにあってその山に住む人たちだけが訪れるような家に隣接した小さな教会でした。
子供の部と大人の部があり、9時から13時までお祈り、歌を絶え間なく行うその儀式には日本ではなかなか味わえないエネルギーを感じました。

ほとんど泣き叫びながら神様への祈りを捧げる人、目を堅く閉じ体を揺らしながら静かに祈る人、いろんな人がいるのですが、教会という場においては誰もが神様との交信に意識を集中させ、とにかく魂を削って差し出すようなそんな感動や尊敬の念を感じることができました。誰が壇上に上がっても、高らかにアーメン!と相槌を打ち、その言葉一つ一つには普段とは全く違う力がこもっています。まるで誰かが乗り移っているような。

ここで思うのは、日本人にとってもフィリピン人にとっても宗教施設というのは人が集い、心の平安を祈るための場所であることは変わりないということと、一方で、フィリピンの教会は人々のつながりがかなり密であり、爺分自身を鼓舞して、もっといい人間になる、もっと頑張るという前向きなエネルギーを持つ場所だということです。

そしてもう一つは、お祈りや歌で神様と交信するというのは日本人にはない習慣だということです。みんなで歌を歌ったり一人一人が神様の御加護エピソードを家族でもない人に話したり、全員で聖書を読み解くのも然り。日本人で仏教徒ですと言っても、仏教の教えを守るために行う習慣は何?と聞かれてすぐ答えられる人はそう多くないでしょう。それに、私たちも初詣でお祈りをしますが、その時にはどんなことをお祈りしてるか口に出す人はいないですよね。フィリピンではお祈りは必ずはっきりとした言葉で語られます。言い換えれば、フィリピンでは歌やお祈りを口にして初めて、神様が私たちを見つけて声を聞いてくれて、自分たちを救ってくれる!と考えられており、そのために毎日のお祈りを欠かさないのです。

だから日本とフィリピンってこんなふうに違う…?

まとめると、日本に比べてフィリピンは表現することが重要で、それは神様を皆で崇める、神様と交信する!という考え方に基づくものです。それは拡大すれば人間みな仲間(神様の子供)だ!という意識の芽生えにつながっており、だから他人を思いやったり、みんなでお祈りをしようという行動につながります。結局のところ、フィリピンでも教会に人が集うことでそこにコミュニティが誕生し、そのつながりは非常に有機的なのです。
思い返せば日本でも、昔は寺で勉強を教えたり、神社の前や境内に市場があったりと人の集うところになってましたよね。神という結びつきとは違いますが、コミュニティのつながりの拠点となっていたのは確実でしょう。今はそういうのが少なくなってお寺や神社に人が集まることはあんまりないかもしれませんが、人々へ開かれた場所であることには変わりないですよね。

結論として、過程も現状も違うように見えるけど、似たようなところが結構あると思ってます。宗教というのはそもそも、皆が安心して暮らせるためにあるものです。だから、キリスト教信者だからと行って、決定的にこれが違うということはなさそうです。ムスリムはまだ経験してないですが、何かわかったら記事に書きたいなと思います!皆さんもフィリピンに行く機会があればぜひ、日曜日の礼拝に参加してみてください。歌を歌ったり握手したり、そういった「動」を感じると、日本の「静」の良さもまた、しみじみと感じると思います。どちらも素敵です。

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