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“非日常”を取り入れる事の重要性

前回の記事では、場面緘黙症克服のためには【克服のタイミング】と【自己を発散できる機会を設ける】事が重要であり、そのうちの【克服のタイミング】について書きました。

今回はもう一点の【自己を発散できる機会を設ける】事の重要性について書いていきます。

*  *  *

緘黙児にとって、学校とは「1日中舞台の上に立っている状態」が続いているような【緊張状態】を強いられる場です。

話したいのに話せない。笑いたいのに笑えない。人と目を合わせることもできない。誰も自分の存在に気づかない。時間だけが過ぎていくもどかしさ。

そんな空虚感も共に感じながら、そして緊張状態で過ごすのです。ストレスが溜まらないわけがありません。

そのため私は家に帰ると【発散】していました。Instagramにて『僻みと当てつけ』というタイトルで投稿しているので詳細は見てみて下さい。

簡単に言うと、私は4個下の非力な弟に暴力を振るって発散していたのです。しかしそれはどう考えても正しい発散方法ではありませんでした。ではどうしたら良かったのか。

そもそも、その問題行動の根源が【場面緘黙により抱えたストレス】から来ていたことを認識できたのは最近でした。当時もその数年後も気づけなかった。←本当にびっくりですよね

緘黙児に原因不明の問題行動がある場合、
ご家族や本人にまず知って欲しいことは

・緘黙状態はその場での不安を下げる自己防衛であると共に、かなりの心的ストレスを伴っている
・学校では常に強いストレスにさらされている
・そのストレスを適切に対処する必要がある

という点です。

ではどのように発散するのが良かったのでしょう。ある本を読んでいると、その答えが分かった気がしました。

まずは以下の考えが緘黙児を表すのにぴったりな気がしたので引用させていただきます。

我が国の文化や社会の時間的・空間的特徴を説明する概念に、既出ではあるが「ケ」と「ハレ」という言葉がある。「ケ」は普段の「日常」生活の時空間を、「ハレ」は特別な「非日常」的な時空間をそれぞれ表している。(中略)
「ケガレ」を「ケ(気)枯れる」、つまり日常生活を営む上でのエネルギーが枯渇した状態と捉え、「ケガレ」は「ハレ」の祭事、儀礼を通して払われ、再び「ケ」の生活に戻ることを可能にするという「ケ(日常)→ケガレ(気枯れ)→ハレ(非日常)→ケ(日常)」という循環モデルを提唱した。
すなわち、学校や家庭で繰り返される「ケ(日常)」の生活に「疲れ」「ケ(気)枯れた」状態=「カゲレ」に陥った子どもたちは、結果的に様々な問題を抱えることとなり、プレイルームでの「非日常的」な「遊び」を通した「ハレ」の時空間を通して、「ケガレ」を払い、再生し、ふたたび「ケ」の生活での適応を取り戻していく、という循環プロセスとして捉えると、改めてプレイセラピーの役割と意義を再確認することができるのではなかろうか。
(中略)プレイルームでの日常から隔絶された非日常的な一時的な「籠り」の中で繰り広げられる「遊び」の中に、子どものケガレを払い、再生と学校復帰への橋渡しとしての役割が求められているともいえよう。
プレイセラピー入門 丹明彦著

これを読んで「まさにこういう事!」と1人で頷きまくりました。

そしてつまり、
上記の「ハレ(非日常)」の部分をどのように生活に組み込んでいくかが重要ですね。

いくつか方法はあると思います。

・カウンセリングルームにてカウンセリングやプレイセラピーを受ける
・心から楽しめる習い事をする
・心許せる友達と安心できる場所で過ごす
・家庭で遊ぶ

私が思い付くのは上記です。

しかし緘黙児は慣れていない場で自己表現することは非常に苦手です。そして人の目を過度に気にする傾向にあるし、無意識に人の気持ちを読み取ろうとします。

緘黙児に緘黙を治そうとする意図が伝わると、逆にプレッシャーとなり【何もできなくなりストレスがかかる】可能性があります。

私は人に【監視されながら】絵を描く事、【自由に表現するよう指示】される事が苦手でした。自分が表現したものが受け入れられないかもしれない、求められているモノと違うかもしれない、とプレッシャーに感じてしまう傾向にあったからです。【期待に応えること】が目的になると、変に力が入り逆に表現ができないタイプでした。

まさに0か100か思考でした。

引用してばかりで申し訳ないのですが、またドンピシャな箇所がありましたので紹介させていただきます。

子どもの問題は、話したり、遊んだりして発散すれば解決するというイメージや誤解は未だ根強い。自発的(場合によっては多発的)に、心の中の世界を自己表出・表現させようとするあまりにも安易なかかわりも跋扈(ばっこ)している。カウンセリング・心理療法のイメージやレディネスと援助ニーズが明確な大人のクライエントとでは事情がまるで異なるという事を、これまで幾度も強調してきた。信頼どころか不信感すら持っているかもしれないセラピストというよくわからない存在に対して、心の中を曝け出すことがいかに恐ろしいことか。さあどうぞ、といきなり自由に遊ぶことや絵を描くことを、何の説明もなく促されることもまた同様である。行動抑制している子どもの場合、自己表現や自己表出を行うことには強い抵抗があり、とても憚られることであろう。それをこちらが要求することは、子どもを追い詰め、苦しさを助長するものでしかない。心にゆとりのない状況で、何をしても良いなどと言われて自由に遊んだり、絵を描いたりすることがいかに苦しいことか。箱庭療法や自由画なども同様である。なるべく侵襲性が低く自己表出を促しすぎない遊びを通して、コミュニケーションを深めていく。
プレイセラピー入門 丹明彦著

まさにそういうことです。

頭ごなしに「じゃあ遊んでみよう!」は危険です。実際、私は授業中の「時間が余ったから自由に過ごしていいよ」という時間が苦痛でした。

与えられた指示があると安心でした。そして安心できる友人が居ると喋る事ができ、自分を表現できました。


話を戻します。

「ハレ(非日常)」の時間を日常に組み込む事が、疲れた心を癒すと記しました。

再度書きますが、私の考える「ハレ」は以下の項目です。

・カウンセリングルームにてカウンセリングやプレイセラピーを受ける
・心から楽しめる習い事をする
・心許せる友達と安心できる場所で過ごす
・家庭で遊ぶ

安心できるカウンセラーや友人、家族と過ごす事。そしてその時間を心から楽しむ事、癒される時間となっている事がストレスを軽くする方法だと考えます。

私の場合は
・週に2回のそろばん教室
・放課後に親友と遊ぶこと
・家庭で姉と弟と遊ぶこと(オセロ、将棋、人生ゲーム、トランプ、カルタ、テレビゲームをよく一緒にしました)
・インターネット上のお絵かき掲示板にて絵を投稿し、同じ趣味を持つ人と交流すること

が癒しとなったのかなと考えます。

『プレイセラピー入門』では、週に1回(50分)のプレイセラピーが推奨されています。

再度引用ですが

アメリカでは自閉症やADHD等の子どもたちに対する有効な療育的アプローチとして「DIR(Developmental Individual Relational)」モデルを提唱しています。これは、発達論を軸とした包括的・折衷的なアプローチで、その中核的技法は「Floortime(フロアタイム)」と呼ばれている。その方法とは「一日に数回、一回20分程度、大人が床に降り、子供の目線でかかわる」というものである。子どもが自らやりたいというモチベーションを大切にし、子供のリードに従い、子どもの興味、関心につきあうということに気を配ることが、大人の担う役割であるともいう。(中省略)
この方法は、子どもの主体性を最大限重視するものであり、基本はオーソドックスなプレイセラピーと大差はない。

とあります。つまり、家庭で遊ぶ機会を設けることでも十分な癒しに繋がるのです。


しかし場面緘黙を克服する&支えるには時間とパワーが必要です。

全て家庭で解決しようとせず、プロに頼むのも現代の解決策の一つなのかなと考えます。

ありがとうございます!