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緘黙の代償

Instagramの『冗談』という投稿に関して考えた事を書きます✏️


私は当時小学3年生でした。家族との会話は全く問題なく出来るけれど、学校ではちーちゃんという特定の子としか基本喋れない典型的な緘黙症でした。

つまり、私の世界は【家族】【ちーちゃんとの会話】【クラスメイトとのわずかな関わり】で成り立っていました。

学校って勉強だけでなく、社会性(コミュニケーションスキル)を学ぶ場でもありますよね。

私は幼稚園での3年間+小学校での6年間、、、

つまり9年間人と接する事を避けていたので、

その分社会性に難があったと考えられます。

(中学生以降、このブランクによって非常に苦しい思いをしていくことになります。追々記しますね。)

クラスメイトに冗談で

【シネ】

と言われました。この冗談の場数を踏んだ事がある人&このクラスメイトとある程度信頼関係が結べている仲であれば、真に受ける事なく対応できたでしょう。


もしもちーちゃん(唯一の友達)から冗談っぽく同じ事を言われれば、私も流せていたのかもしれません。少なくとも同じようなダメージでは無かったはず。

そう考えると、コミュニケーションとは言葉の内容だけでなく「誰が発するか」「その人とどんな関係性か」も重要なんだなぁと考えさせられました。

そのクラスメイトとは信頼関係が結ばれていなかったので、その言葉が冗談であるのかすら判断できませんでした。


また私は汚い言葉に対する免疫も無かったんです。ちーちゃんは穏やかで優しい子且つおばあちゃんっ子(躾に厳しいタイプ)だったので汚い言葉を使いませんでした。

つまり、私の世界に汚い言葉が出現する事が無かったのです。緘黙の子は【緘黙】である事で、あらゆる刺激から自分を守ろうとしています。でもそれは、何も起きない前提を作っているだけなのです。


冒頭にも書きましたが、人間は人とのコミュニーケーションの中で防御する力を身につけていきます。しかし緘黙の子はそれが身に付いていない、つまり装備がないので防御力は非常に弱いと思います。

そのため傷を負った時は想像以上に深いです。
元々傷つきやすい性質の方も居ますが、
防御力が脆弱なので更に余計に傷つきやすいのだと思います。

小学3年生の時の記憶は余り無いのですが、このエピソードに関しては細部まで覚えています。

それだけ私の心は傷を負っていたということになります。


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場面緘黙症児は物事に関して逃避行動を取る事で自身を守ります。

逃避行動には例えば緘黙、緘動、登校拒否等が当てはまります。

私は非常に真面目で世間体を気にする両親のもとに生まれた事もあり、

もともと【学校を休む】という選択肢はありませんでした。なので6年間で2回くらいしか休んだ事はありません。(風邪)

両親の方針だけでなく、

心の奥底で【一度休むと取り返しがつかなくなる】という恐怖がありました。

『授業に遅れるのが怖い』『皆が知っている授業を自分だけが知らない世界が怖い。』『苦手な学校を休んでしまうと、行くことが難しくなってしまうかもしれない。それが怖い。』

そういう思いが強かったのです。
【行かない】という選択肢をとっていれば、沢山傷つかなくて良かったかもしれません。

安全な家でずっと過ごす方が良かったのかもしれません。

ですが私は、傷つきながらも登校した過去の私に拍手を送りたいです。

1人は本当に辛かったし、苦しかったけれど、

その経験が無かったら緘黙症を克服できなかったかもしれないからです。

意図的な関わりは少なかったけれど、クラスメイトと過ごした日々は私に沢山の経験を与えてくれました。

年間行事やクラブ活動、グループ学習、縦割り班での活動等では半強制的に人と関わらざるを得ない状況でした。ですが今思うと逆にそれは有り難かったなと思います。

そのお陰で、小さな成功体験を沢山得ることができたからです。

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場面緘黙症を克服するには

【挑戦する勇気】が鍵になってきます。

先ほども記した様に、緘黙症の子は物事に対して逃避・回避行動(緘黙、緘動等)をとってしまいがちです。

周囲が理解を示しすぎる、特別扱いしすぎると[してもらうことが当たり前]となり、逃避行動を取るばかりでなく、挑戦する事をしなくなる可能性があります。

【挑戦する勇気】を忘れさせず、周囲はフォローしながら関わり、小さな成功体験を積み重ねていく。

これが非常に重要です。

・・・わかります。言ってることが矛盾していると💦


けどこれが、緘黙症の克服に対する真理だと思います。


色々書いて、何書いてるかわからなくなったので、今回はこの辺にしておきます☺️笑

ありがとうございます!