悪趣味

彼女は幸福を信じられない。

右ノ上葉子(33)。ありふれた主婦である。地方都市、ローンを組んで購入した小さな建売、2人の子供、穏やかな夫、ささやかなパート、健康に不安はなく生活は順調。結婚生活も8年目でまぁこんなもんだろう。可もなく不可もなくな毎日は端から見ると十分すぎるほど「幸福」だ。

葉子は幸福を信じられない。

毎週水曜日投函される地域のフリーペーパー。一画に小さく載っている賃貸物件の広告。単身者専用敷金礼金なし。1ヶ月フリーレント。築40年。葉子は鋏で丁寧に切り取りクッキーの空き缶にしまう。エアコン新品。水回りリフォーム済み。築42年。丁寧に切り取りしまう。ペット可。広々フローリング。角部屋。築34年。丁寧に切り取りしまう。切り取った後は夫も子供もフリーペーパーは読まないので捨ててしまう。クッキーの箱は生理用品などを収納する棚の奥にひっそりと隠しておく。

葉子は幸福を信じられない

夫が出張で帰らない日、子供が寝たのを確認すると葉子はクッキー缶を出して切りぬきをダイニングテーブルに広げる。毎週毎週切り抜き続けた小さな紙たちはテーブルの上に堆積する。

葉子は紙たちの山を眺め少し満たされた気になる。そしてその紙たちの中から無作為に拾い上げ、パソコンを立ち上げる。

ふーん、コーポ赤根。築年数行ってるけど外壁リフォームされてて悪くない。あぁ一階かぁ

ぶつくさ独り言を言いながらコーポ赤根で検索する葉子の顔はウキウキと綻んでいる。検索結果で出てきたコーポ赤根は外壁はそれなりに綺麗なものの醸し出される昭和臭が全く隠しきれていない、実にさえないコーポだ。

涼しい顔で葉子はストリートビューを見ている。生活道路は狭くコーポには駐車場なし。コーポ隣接の一軒家は違法改造のセダンが斜めに停めてあり雑然としている。

治安は良くなさそうだが徒歩の範囲に病院、小学校、スーパーがある。

続いて内見。コロナの影響で多くの不動産屋が室内パノラマビューを取り入れているのは葉子には有難い。

玄関。靴箱小さいが大して持ってないからヨシ。廊下の右の扉がユニットバス。安い古ビジネスホテルのようだが使えればなんでもヨシ。室内洗濯機置場。ポイント高し。キッチン。シンク狭いけど単身者だとこんなもんか。二口コンロは置けそう。清掃ヨシ。リビング。二面採光。窓の向こうは墓地と草っぱら。あぁこれは全然住めるいい物件だわ

コーポ赤根のパノラマビューを何度も隅々まで見て、広告の間取り図を見て、葉子は妄想する。一人になった私を、妄想する。

今の新築とは違って親の歳くらいの年数のコーポ。きっと少しすえた匂いがして床はじんわりぬめっている。すきま風。性能の悪い給湯器。筒抜けの生活音。

そこに私は一人で住むのだからと、葉子はきっぱり妄想の中で決意する。朝から晩まで掛け持ちで働こう。食事は毎日味噌汁と米でいいわ。黙々と蟻のように働いて、休日はぼんやり墓地見てよう。自分一人を養うためにコツコツコツコツ。掛け持ちはコンビニとファミレスでいけるかな。お金が少したまったらテレビを買って、椅子を買って。

襖の向こうの和室から子供たちの寝息が聞こえてくる。しんと静まり返った夜の始め。コチコチと秒針の音だけが響くリビングで葉子はひたすら妄想する。何もかもを失くして1人で再スタートを切る生活を妄想する。

夫の事はそれなりに愛している。離婚したいだなんて到底思わない。子供たちは可愛くてたまらない。至極当然。もう嫌だとかやってらんないとか、この生活で思ったことなど葉子には無い。不満も渇望も、無い。無いのだ。

葉子は目を閉じて妄想の自分を生きる。カーテンはやっぱり翠色が落ち着くかな。南の窓枠にはキツネの人形をたくさん集めて並べたいな。あぁ、床の一部の変色が気になる。剥げてるとこだけマットで隠そう。あぁ、自分ひとりのために自炊なんてしたくないからお皿は少しでいい。

コーポ赤根の103号室にひっそりと生きる自分を、その時だけ葉子は生きる。家族もないパート掛け持ちの33歳の女。脳内で確かに別の人生を描きながら、これはただの空想ではない、訓練だ、と葉子は思う。いつか来るその時に、この完璧なシミュレーションを実行してみせる、と葉子は思う。隣の和室で上の子が寝言を言い寝返りを打つ音がする。あら少し暑いのかしらと葉子は和室を覗く。よく眠っている2人の子にそっと布団をかけ直してやり葉子は訓練に戻る。そう、訓練。

子供たちの寝顔を見つめる。仔犬のような小さな子供たち。寓話のような絵画のような、これは紛れもなく幸福そのものだ。

こんな幸福がずっと続くわけがないと葉子は堅く信じている。葉子は幸福を信じられない。

葉子はリビングに戻り、山のような物件の切り抜きから次の1枚を摘まみ、パソコンの前に座り直した。

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