宮沢賢治と米津玄師は同じ景色を見ている気がしてならない

日本人の音楽好きの多くは米津玄師が好きであることは、先日リリースされたアルバムの売れ行きやYouTubeの再生回数の多さで明らかだが、私も米津玄師が大好きだ。いい歳こいて信奉しているといっても過言ではないレベルで好いている。

もしも2020年現在、私が10代で米津玄師に触れていたらどうなっていただろう。あの多感な時期にこんな素晴らしい才能の若い男性の音楽を信奉していたら。ちょっと人生が変わるレベルで魂から呼応していただろうとすら感ずる。

彼の良さはたくさんあって、もうなにもかも語り尽くされていると思うのだが、やはり歌詞の叙情性というかあまりにも紡ぐ歌詞が美しいのと、それを違和感なくメロディーに乗せて歌にするのが天才的に優れている点が、他のアーティストと一味違う所なんではないかと思うのだ。

彼の日本語はとても美しい。あの国民的大ヒット曲の「lemon」の一節

「切り分けた果実の片方のように今でも貴方は私の光」

なんて美しいのだろう。聴く度未だに驚愕している。語彙が貧弱過ぎてこの衝撃をなにひとつ言い表せないのだが、1つ確かに言えるのは、彼の言語感覚や感性は宮沢賢治にとても似ているんじゃないかと言うことだ。文章の癖や言葉の選び方ではなく、根本的なものの見えかたが、両者はとても近しい気がしてならない。

子供の頃、テレビで放送された「銀河鉄道の夜」のアニメを録画し、何度も見た。ますむらひろしが登場人物をなんとも可愛らしい猫ちゃんに描き、細野晴臣が音楽を監修した素晴らしいアニメだ。

静かで落ち着いた雰囲気でずっと物語は進行する。暗い、と言っても過言ではない。子供が喜びそうな派手な演出はなく、2人の主人公は(可愛らしい猫たちは)終始大きな目を見開いたほぼ、無表情だ。不思議なエピソードが沢山、次々と訪れてはそっと暗闇に消えていく。物語は鉄道に乗ってどんどん進み、カムパネルラとジョバンニに別離が訪れそして、ラストシーン。ジョバンニは走り出す。エンディングに宮沢賢治の「春と修羅」が朗読される。

子供の私には(今もだが)、「春と修羅」の何もかもが理解できない。だが、あまりにその文章が美しいことだけはなにも理解できない中でたしかにわかっていた。静かに朗読する常田氏の声を聞きながら、子供の私は

「文章の境目の静寂の所までもが綺麗な、こんな詩を書ける人がいるんだ」

と感じたことを今でも覚えている。

Twitterやブログを見ていても思うのだが、全く似たような文章を書いているように見えても、行間が喧しいというか、どうしてもその人の内面が文字と文字との隙間からこぼれてくるように思える時が多々ある。

完全に静謐な文章を書ける人というのは多くはなくて、どうしても書いている人の驕りや欺瞞が透けて見えるというのだろうか。紙に書き手の肌の脂が付着しているような感覚。

歌詞を聴いていても、小説を読んでいてもその感覚は在って、途端に引っ掛かって「あぁ…」と少し興醒めするような。

米津玄師の歌詞にはそれがなく、行間までもが完璧に紡がれていると感じるのだ。宮沢賢治の詩や小説のように。両者はあまりに純粋で美しい。浮かぶイメージは誰もいない春の日の午後、光の当たる田舎の診療所。つくづく語彙が貧弱過ぎるためになにひとつ書き表せなくて悔しいのだが、これを目にした誰かが少しでも「あぁわかる気がする」と思ってくれることを願う。

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