死ぬほどおもしろい「つまんない」の話

こんばんは。靄篠です。

3月の20日にてれかすくんの新曲「つまんない」が出まして、これがまたよかったんですよ。というわけでまた感想文を書きます。

追記:書くのに3時間くらいかかり、全部で7000文字くらいになりました。


変な宣伝になってしまいますが、てれかすくんの曲がでるたびにだいたい感想文を書いています。てれかすくんの曲が好きな方は気になったら僕の感想文を、僕の文章が気になった方は僕の文章を読んでみてくれると嬉しいですよ~。小説ならこれ、それ以外は内省を文章化したものが多いです。

前置き:てれかすくんの書く「誰か」の話

僕の書く感想文を読んだことがある方はもうご存じではあるかと思いますが、僕はてれかすくんの書く歌詞が好きです。そもそも僕は音楽に明るくないのでそもそも音楽については何も書けないのですが、それにしたって全てではないにせよ「都電」のあたりから感想文を書かせてもらっている(勝手に書いている)わけで、文章を読んだり書いたりするのが好きな僕にとって、これだけ書きたくなる歌詞を書き続けてくれるのは有難いなあと思います。

てれかすくんの歌詞の書き方は結構色々なタイミングで少しづつ変わってきているというのはなんか前に書いた気がしないでもないのですが、最近は本当によく色々試して遊んでいてすごいなあと思います。

僕は「てれかす」としての彼の音楽、しかも公に公開されている音楽だけしか知らないので全然的外れかもしれませんが、例えば「テイクシート24」を出した時もこんないわゆるボカロの文脈っぽい音楽も作るんだ(これは素人なりに曲の話をしているので印象でしかないのだけれども)と思ってびっくりしたし、それこそ「スペースさんま」とかの時期と比べると語りの主観はあの頃ってもっと作品側というか、彼の創作における想像上のイメージのほうに近かった(あえていやらしい言い方をすると「バーチャル」だった)のに、最近に近づくほど歌詞はどこかに実在する生々しい誰かに近づきつつある(「リアル」に近づいている)と思っています。それがうまく彼の作品の映し方とかみ合って、これは完全に僕の感想ですが、彼の作品は昔よりいっそうおもしろいことになっているというわけです。

このあと書くけれども、「つまんない」の歌詞の余白はこれまで以上にうまく「書かないこと」をしているし、おそらく彼なりの「書けなさ」を通過するたびに少しづつ新しい方向に進んでいるんだろうなあと思って眺めています。

というわけで彼の中でバーチャルとリアルを行ったり来たりしている「誰か」と「君」の書き方を僕は結構楽しみながら見ていて、それが今回の「つまんない」で最強に面白かったので、嬉しいわけです。

注意

これ以降僕が書くことはただ僕の解釈を書いたものであって、正解を示したり何か別の解釈を否定するものではありません。ぶっちゃけると稀に「勝手な妄想書くな!」みたいなクレームが来る(笑)のですが、僕の感想は僕の感想でしかありません。気軽にお楽しみいただくか、あなたの自由な言葉選びで、あなたの感想を読ませてくれると嬉しいです。

「つまんない」僕の話

前段に続いての話になるのだけれども、「つまんない」は紛れもなく「僕」の話でしかなくて、これまでに出てきたような「君」などの他者の話をあまりメインにしないのが僕はすごく好きです。僕自身僕のことを書くのが好きなので、こういう書き方は特に好きなわけです。

一応歌詞の中で「あなた」が出てきますが、「僕」の思案のなかで想起されるだけであって、歌詞にあるようにここでは全く向き合われることがない、と僕は読んでいます。内省を語り続ける「僕」がつまんないわけないのですが、どうやら「僕」にとってはつまんないようです。

最も美しい歌詞の始まり

「つまんない」の歌詞は、最も美しい書き出しを成立させています。

午前0時 横並び 当たり障りない僕は 
次の朝が来るまでに 踏み込めやしないから

というふうに始まるのですが、最高ですよね。正直言って僕はいきなり発狂しました。

午前0時の横並びってみなさん何を想像するんですかね。僕は結構リアルに軸足を置いて生活しているので飲み会で店を出た後の風景が一番最初に見えてしまうんですけど、その0.5秒後くらいにどう考えてもこれぶいちゃのミラーの前にいるときの話だ~と思って「うわ~~」って言いながらいぬになりました。

これの面白さをまず書きたいなあと思っていました。「午前0時 横並び」というだけで立ち上がるこの世界観、しかしこれがリアルの飲み会後の話なのかぶいちゃのミラー前の話なのかっていうのはどうでもよくて、僕が嬉しいのは、「僕」の内省自体は、そこで描かれている世界が前述のどちらであったとしても何も影響を受けないということです。「当たり障りない僕は」以降、世界について全く言及することなく、専ら「僕」の内省が語られていくだけです。「僕」が次の朝が来るまでに踏み込めやしないことは、「僕」がどこにいても変わらないのです。

書き方の話として、「僕」の心のことは、「僕」の生きていることは、「僕」の居る世界がどんな景色であったとしても、「僕」の話として続行できてしまう。書き方が美しすぎて、やっぱてれかすくんの書くことを、僕は好きだなと思いました。

ぶいちゃの民で創作活動をしている人は結構多いと思うんですけど、バーチャルとリアルを両方生きていないとできない書き方をここまで簡潔な言葉選びで成立させてるのは僕もあまり見たことがなくて、まじでスゲーなと思います。

物語で言うところの「時は20xx年。高度に進化した科学技術によって…」みたいな世界観の提示を、てれかすくんは「午前0時 横並び」で完結させてしまうわけです。えぐ。

見えない「表情」と「世界」の話

さっき発狂した歌詞の続きなんですが、これも最高なんですよね。

耳触りで選んできた 正解を口にして
なんでもないよな ふりをした 顔をした

上の一行目の歌詞も良いので話はしたいのですが、ここで一番言及したいのは「なんでもないよな ふりをした 顔をした」のところです。

なんでもないよなふりなので明らかに「僕」にとっては「なんでもある」わけですが、リアルでいうところの「なんでもないよな顔」はなんとなくイメージできるんですけど、ぶいちゃ上での「なんでもないよな顔」って、なんだ?と、僕はめちゃくちゃここに惹かれてしまうんですね。それはニュートラルな状態の表情かもしれないし、笑顔かもしれないし、( ˘ω˘ )←こんなのかもしれないし、( ーωー )←こんなのかもしれないですけど、この想定しえない「なんでもないよな顔」が、いきなり僕らに対しての「僕」の他者性を強化してくるし、それが「僕」にとっては本来サムズアップだったりピースだったり別の感情を前提とした表情であるというぶいちゃ特有の事情も相まって、ULTIMATE EMOTIONALなわけです(ちゃんと書けよ)。

どちらの世界でもよいという前述の特性を生かしながら、「ふり」である、嘘であるという「僕」の表情の裏表を、リアルとバーチャル、それらの持つ独特の特徴と二面性とを絡めながら非常に高度な形で表現している歌詞となっています。

まじで美しすぎる。天才というほかない。

※サビ前の歌詞からするに笑顔かもしれないし、そうでないかもしれないね

休憩:サビの歌詞がいちばんむずい

サビの歌詞が僕には一番むずいです。ここではあえて歌詞は引っ張ってこないんですけど、意味がないことって、人生の話をしているのか、表現の話をしているのか、僕にはよくわからないんですよね。

なのでここは解釈ではなく僕のいつもの書き方で感想を書いてしまうんですけど、僕は意味って基本的に世界のどこにもないと思っていて、自分で解釈するものだと思っているし、意思って生まれてくるものというよりは選び取るものだと思っています。

僕はもともと世界が好きじゃないけれども、勝手に世界の空の色を感情のことだと信じるようになってからその楽しみ方がわかってきたこともあって、なんかすべてのことに、僕に対してあるべき姿を取るよう世界に要請する癖がついてしまっています。危うさと隣り合わせなのは理解しているんですけどね。

僕はてれかすくんの書くことは最高だと思ってそれを示すべくこうして感想文を書いているし、僕は僕の書くことを面白いと思って書いているから、僕よりも面白いと僕が思う「書くこと」をこうやって他人にやられて、それを最高だよねって書く悔しさも実はあったりするんだけれども、僕はてれかすくんは最高だよねっていうことを選んでいるので、なんか僕はそういうことをこのサビを聞いて感想文を書こうと決めながら、考えていました。

だからその意味でいうと、つまんなさって、本質的には意味のなさというよりも、意味を選び取る選択ができるかどうかな気がするし(僕の場合の夕焼けや言葉選びや歩道橋のような)、それは明らかに人間が生きることの意志のことであって、だとすれば僕たちの生きていることが辛いことも、過去に負った痛みも、いつか逆に意思に変えてしまえるような気が僕にはしているので、まぁつまりサビの歌詞も好きです。

痛みと対決しながら生きて死にたい。

「またね」ではないということ

2番の歌詞もまじでいいんですよね。

盗んだ言葉と 借りてきた見た目で
覆い隠しちゃってばいばい 僕は今日も寝坊するの

僕はここで「おお~~」ってこれから来る「ヤバ」に警戒していたんですけど、それはこの「つまんない」の前に投稿された曲が「インバイト来たからまたね」だからです。

「インバイト来たからまたね」のサビで

またね 明日ここで またね 会えるからね
そんな当たり前が ちょっと嬉しかった

とまで書いている文脈がある中で、いきなり「ばいばい」が来たので、ヒエ~というわけです。

そもそもこの歌詞も非常に美しい書き方であって、唸ります。盗んだ言葉と借りてきた見た目ということで表現とアバターという「ガワ」が想起されるなかで、そこに何を隠したのかは明確には書かないんですね。外側が表明されるとき、実質的には内側の存在を示すことになる(場合があると、僕は思っている)ことを良い感じに信頼した省略だと思います。

アバターという外側と、その内側に隠した人間性(と仮に書いておく)という二つの事柄を、「覆い隠しちゃって」かつ「寝坊する」という言葉選びから、布団の中にうずくまって出てこない「僕」のイメージへと繋げるというあまりにも最強な表現が行われています。最初に提示した「僕」と2つの両立する世界という世界観をここでも維持しているんですね。しかもバーチャルとかリアルとか、全く明言せずにです。

これだけの文字数でこの表現が書けるのがまじでうらやましいというほかない。

しかも「ばいばい」なわけです。「またね」ではない。「僕」は実際のところ、この隠された内面と今後も対決する気がないわけです。向かうべき場所へたどり着かず、寝坊し、完全に見送っている。彼にとってこの課題は、彼自身が繰り返し言っている通り、「仕方ないね」なわけです。

そしてこの「僕」の諦めは、さらに文学的で美しいほうへ繋がっていきます。

あっち向いてほい

僕はてれかすくんの歌詞がまじで好きなんですが(何回言うねん)、ここから書く部分は正直これまでにないほど感動しました。ぜひ僕と一緒に椅子から転げ落ちていってほしいので頑張って書くんですけれども、この曲は次のような歌詞でもって続いていきます。

結んだらぐっと閉じて 開けないの じゃあね
向き合わないように あっち向いて ほい

ここを読むのが僕はあまりにも楽しすぎて、何度もここを聞きなおしてはニコニコしていました。これは本当に最高の体験だったと思う。

人によりけりだと思うんですが、僕が感じたとおりの順番で書いていきます。僕はまずこの歌詞を聞いたとき、次のようにイメージしました。

「あなたと一度つないだ手を、僕はもう離すことができない。じゃあねと言っていなくなるあなた。その事実に向き合わないよう、目を背ける僕」

上のように最初イメージしたのは、その直前の歌詞で、他者である「あなた」が出てくるからです。僕は前半でこの歌は「僕」の歌っぽいぞ!と思いつつも、ここで他者の話が出てきたんだな、と思いました。実際これでもある程度の意味は通ります。

しかし「あっち向いて ほい」を考えたときに、面白いことが起こりました。先に書いた僕の解釈では、「僕」のあっち向いてほいにおいて、「僕」が「あっち向いて~」と言う前に、「あなた」はもう、「僕」ではないどこかを見ているのです。あの読み方をするとき、繋いだ手を離せない僕に対して「じゃあね」を言ったのは「あなた」だからです。

「あっち向いてほい」は二人の人間が向き合って行うゲームです。そのルールの構造上、斜めを向いていてもいけないし、相対する必要があります。そうすると、「僕」と「あなた」はどうやってもあっち向いてほいゲームを行うことができません。

「あっち向いてほい」がゲームとしてすでに成立していないということも「僕」と「あなた」の関係性の破綻として面白い読み方ができるといえばできるのですが、その場合「向き合わないように」という部分をうまく消化することができないんです。向き合おうとしていないのはこの場合僕ではなくむしろ「あなた」だからです。

そういうわけで、いったい「僕」は何と向き合わないために、誰とあっち向いてほいをしているのか?という疑問が僕の前に現れました。これが僕に今回の作品で最大の快感をもたらした課題でした。

先に結論から言ってしまうと、僕にとって、「成立していないあっち向いてほいゲーム」という読み方は完全な誤りでした。紛れもなく、このあっち向いてほいゲームは、ある意味で成立していたからです。

むすんでひらいて

僕は先ほどの課題に到達したのち、「結んだらぐっと閉じて 開けないの じゃあね」について、もう一度考え直すことにしました。

よく考えれば、結んだらぐっと閉じて~という歌詞を手を繋いでいるのだ、と読んだのは前の歌詞の文脈に引きずられすぎているのではないかという気がしました。もっとシンプルに考えてこの歌詞を聴き直したところ、僕は子供のときによく歌っていた気がする、例の「むすんで ひらいて」の曲を思い出しました。というか普通はこっちなのかもしれない。

そこで僕は「つまんない」の再生を一旦停止し、「むすんでひらいて」を聴きに行くことにしました。すると歌詞は僕の記憶とだいたい同じ感じで、次のようなものでした。

むすんで ひらいて 手をうって むすんで 
またひらいて 手をうって、その手を 上に

むすんでひらいてはずっと同じで、最後にその手を上にやったり、下にやったり、頭にやったりしながら、何度も同じことを繰り返し歌います。

そうすると、結んだらぐっと閉じて開けない「僕」にはどういう状況が発生しているのでしょうか。書いていて本当に感動的だなあと思います。「僕」は結んだあと開くことができず、そうすると、手をうつことができないのです。そして手をどこかへ向けることも、また結ぶこともできない。

「手をうつ」と聞いて思いつく意味が僕には2つありました。ひとつは心が動いたときに手をたたいて喜んだりすることで、もうひとつは、何かを達成するために妥協したり代案を用いたりして、話をまとめることです。

ここまでで、僕はこの部分の歌詞を次のように読み直しました。

「今のままでは達成不可能な課題に対して、手を打とうと試みることまで「僕」は到達することができていない。そしてその課題に「じゃあね」と告げ、向き合うことを放棄している。」

さらにいうと、「あっちむいてほい」の曲のように、この課題との対決は、本来何度も何度も繰り返し妥協しながら挑戦していくものだと付け足すことができます。「ぐっと」という表現が、一度の失敗をも許すことのできなそうな「僕」の性質を良い感じに補完すると思います。

これで、先ほど消化できなかった「向き合わないように」へとうまく繋げることができたと思います。

そしてやっと次の解釈へと進むことができるようになりました。僕が一番感動した「あっち向いてほいゲーム」の課題です。

ここでもう一つあえて追記しますが、「むすんでひらいて」と「あっち向いてほい」という子供の遊びの「じゃあね」によるこの連結が醸し出すノスタルジーも、おそらく一部のぶいちゃ民の中に存在する過去への願いや「進めなさ」に無意識に何かを感じさせる気がします。

「僕」と向き合う唯一の人

これは課題を覆い隠し、寝坊し、課題と向き合うことを放棄する「僕」の話です。

午前0時、横並びに並んだ僕が、目の前に映る課題から目を背けながら上辺の言葉選びをして、何かを覆い隠した容姿で、どうってことないふりをしながら夜を過ごしている。

だとすれば、ずっと彼の目の前にあって、相対していてる誰かなんて、もう一人しかいないのです。横並びの中の一人、ミラーに映っている「僕」自身です。

目の前に映し出された、覆い隠された課題である自分自身それ自体から目を逸らそうとするとき、自分自身を指さし、あっちを向くこと、それだけでいいのです。唯一向き合っていて、向き合っていないただひとりの人間です。

だからこの曲は、悩みを抱える数多くの「僕」たちに刺さったと思います。

書きたいことはこれで全部書きました。ありがとうございます。

てれかすというクリエイターのこと

僕はてれかすくんの物作りが好きです。

作詞、作曲、動画の作成、ブランディングも、Twitterの運用も、彼の独自の一貫した世界観を守りながら活動していることを素晴らしいと思います。別にいきなりぶっ壊れて変なことやりだしても僕は全然いいんですけどね。

まるで三脚を持って行って一人で撮影したかのようないつものMVの構成も、彼の中にある作品のイメージを守ろうとする美学も、それにできる限り近づこうとする努力と出力する実力も、実際にこうして目の前に現れてくる作品の面白さも僕はかっけえなーと思っています。

これからもいろんな曲を作ってくれたら嬉しいなあと思います。

だいぶ長い文章になりました。ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

てれかすくんは、今回も最高の曲をありがとうございました。

ではまた。

2022.03.22 靄篠





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