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プライベートタイム

例えば、朝の6時に挨拶をするような。そして、今日の太陽の温度を報告するような。

満員電車に対する鬱憤ではなく、横断歩道の先に見えた未来を伝え合う、そんな関係。

それをきっと、特別と呼ぶのだろう。


昼食時に来るメッセージは特別ではなくて、
夕方に来るメッセージも特別ではなくて、
深夜に来るメッセージも、そうではなくて。

夜の21時に、待ち合わせをできることは、特別なのである。

夏になれば、蚊に刺された足を出して散歩に出掛けることができる。

そしてそんな私を、後ろから切り取り、記録する人がいる。

特別ではない時間に、それを見せ、「これ好きなんだよね」なんて言いながら、目に見えないコレクションされた棚に一緒にしまう。

次の日の特別を待ちながら、"普通"の夜を跨ぐのだ。それは実に悲しい物語であり、実に受け入れ難い真実なのだ。


次の日の夕方は、池に向かい、中途半端な高さから、地面を見下ろした。

例えばこの時私が日本人ではなかったならば、池には行っていないということなのだ。

それもまた、特別が意味することなのだ。


池から家に帰ると、まだ21時にはなっていなかった。そんな時は、もう一度外へ行き、彼と座ったベンチに腰掛け、21時の空を眺めるのだ。

普遍的な空を。

文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.