私の読書遍歴①

私が本をよく読むようになったきっかけは、ピースの又吉直樹さんだ。
それまでは1年に2〜3冊読めれば良いくらい。元々、集中力が長時間続かないタイプなので、先が気になるようなミステリー以外は、毎日数ページくらいしか進まなかったし、少しでも中だるみするとすぐ読むのをやめてしまっていた。
幼い頃は、というかある程度大人になっても、絵本や詩集といった文字数が少ないものばかり好んで読んでいたため、世間を虜にしたハリーポッターでさえ、私は炎のゴブレットの途中で断念してしまった(ハリーのキャラクター性が1からずっと好きになれなかったというのが一番の理由ではあるが)。
高校生のとき、ダ・ヴィンチ・コードが流行った。ミーハーな友人から貸してもらったのだが、それは面白くて2日で読んだ。でも、当時の自分からしても、なんとなく「最近読んで面白かった本」としてその本を周りに紹介するのは恥ずかしい気がしていたし(失礼にもほどがある)、これを読書と認めるにはいささか抵抗があった(ほんと失礼)。

てはじめの村上春樹

ダ・ヴィンチ・コードを許しがたかった理由としては、私はもとより読書をする人と落語を聞く人に強い憧れがあり(落語は多分窪塚洋介主演の『GO』を観た影響だと思われる)、落語はさておき、純文学なんかをさらさらっと読めるかっこいい読書をしたくて(なんだそれ)、最初に選んだ1冊が村上春樹の『ノルウェイの森』だった。有名な作家の代表作なので、さぞかし面白いのだろうと思って学校の図書館で借りてみたのだ。映画を普段観ない人間が最初の一本として『ニューシネマパラダイス』を選ぶイメージだ。だが、内容は当時の私には衝撃的なものだった。この話の伝えたいことは全く読み取ることなどできず、むしろストーリーはどうでもよく、破廉恥なシーンのオンパレードという印象だけが残ってしまった。ただ、内容が内容なだけに、当時の私には関心がありすぎて、おかげさまであっという間に読んだ。でも、目指していたかっこいい読書じゃない。そもそも、世界で認められる村上春樹の良さが自分には理解できなかったことが悔しかった。両親もハルキストとまでは言わないが、村上春樹の新刊はとりあえずチェックするタイプだった。そこで、家の本棚から春樹の別の本がないか漁った。最初に見つかったのが『風の歌を聴け』だったか『1973年のピンボール』のどちらかだったので読んだみたが(その時点でダメ)、私にとってはやはり、少しライトな『ノルウェイの森』だった。それでもなんとか春樹を理解したい、と次に手を出したのが『海辺のカフカ』である。これはまあ、普通に面白かった。でも今思うと、私には割とわかりやすいストーリーだったからのような気がする。のちに世間を賑わせた『1Q84』は、よりストーリーが面白かったので(NHKと新興宗教への恐れも大きくなったが)、その後の新作はどれも読むようにしているが、私は自分で思う。私に春樹は手に負えない、と(何様)。100%理解し、包み込んであげられる自信がないからなのか(だから何様)、『羊をめぐる冒険』や『ねじまき鳥クロニクル』といった代表作をいまだに敬遠してしまっている。でも、春樹の文は意外とクセになるので(何でもないシーン、特に食べ物を準備するシーンなどをやたら丁寧に描くところ)、たまに春樹を欲する自分がいる。ちなみにだいぶ大人となった今、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら 』というエッセイが1番好きである。

女性作家の沼

村上春樹がなかなかうまくいかないので、私は別の有名な作家を探すことにした。
家にある文庫本で、知っているタイトルの本を探していたところ、吉本ばななの『キッチン』にたどり着いた。割と短めで、サラッと読み終えた。そこで気づいた。女性の文って、なんて柔らかいのだろう。同性だからなのかわからないが、文字が情景となってスッと頭に入ってきやすいのだ。男性の文は難しい漢字だらけでカチカチしたものが多くて(そういった意味では春樹は個人的に柔らかい気はする)、頭の中でシーンを想像するのに困難な時がある。当時、浜崎あゆみ並みに新作を出す東野圭吾も、ミステリーにしては私はいつも進みが遅く、何でだろうと思ったら、多分文体が合わなかったのだと思う。
あとあれだ。当時はぼやっと違和感だけがあり、今になってハッキリ分かったのは、女性作家の場合は、ラブシーン(ベッドシーン?)の描き方もとても綺麗だ。男性作家は生々しいというか、嫌らしい表現が多い気がする。女性は本当はそんな行為望んでないよ、と伝えてあげたいくらいに男目線の独りよがりな描き方が多い(単なる偏見でもある)。ベストセラーを叩き出した『イニシエーション・ラブ』の作者、乾くるみが男性だと知った時、妙に納得した。そういうシーンの描き方が嫌らしいというか、女性の描き方自体が嫌らしい目線で描かれているように感じていたからだ。
そんな発見をしたこともあり、私は女性作家を攻めてみることにした。吉本ばななを数冊読んだのち、角田光代に行ってみた。凄く、凄く良かった。ベタベタの恋愛小説じゃなくて、いつも痒いところに手が届く感じの作品が多く、今でも大好きな作家さんのひとりだ。ちなみにそのあとたどり着いた江國香織は、私にはあまりはまらなかった。ただ、江國香織のタイトルセンスはとても良いな、といつも思う。読んでみようかな、と思わせるタイトルが多い。後に知ることになる山崎ナオコーラも然り。タイトルがインパクトありすぎるものが多い。

太宰挫折からの大槻ケンヂ

そんなわけでしばらく女性作家の沼から抜け出せずにいた私だが、その後大学受験や大学生活で忙しくなり、しばらく読書から遠のいていた。とあるクラスで少しだけ仲良くしていた男の子から『半落ち』を借りたが、活字ブランクが長いことあったのもあり、読み終えるのに3ヶ月ほどかかったことも覚えてる。まるで課題のように無理やり読んだ感が否めない上に、今となっては内容もあまり覚えていない。
そして今年こそは純文学を攻めるぞ、と大学2年の年明けに気合を入れて、読書初めに選んだのが、太宰治の『人間失格』だったのだが、読んでる途中からなんだかとてもやるせない気持ちになり、読み終えた時にはストレスはMAXになっていた。主人公がとにかくダメダメ過ぎて、しかもその主人公がほぼほぼ現実の太宰治だと思うと、太宰自体を受け入れられなくなってしまった。私の駄目なところはそういうところだと思う。共感できない人間が主役だったりすると、それだけでその作品自体が好きじゃないと思ってしまうところだ。あまり性格が良いと言えないハリーポッター然り、指輪に取り憑かれて友達を蔑ろにしようとするフロド然り、パンを盗んだジャン・バルジャン然り。自分でもよく分かっており、悩ましい性分だった。
ただ、太宰の文は、たまにふざけた表現が垣間見えて、そこは少しクセになった。この感覚が、のちの又吉さんとの出会いに繋がる(まるで知り合いかのように大袈裟に言っているが、もちろん私が一方的に知っているただの数多のファンのひとり)。

太宰の色味が想像以上に暗くて困ったな、と思っていたある日、バイト前に定期的に訪れていたヴィレッジヴァンガードをその日もふらふら〜っと物色していると、いつも変わらず置かれている大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』が急に気になった。大槻ケンヂという人物はよく知っていた。兄の影響で小学生のときから筋肉少女帯を聴いていたし、当時、大槻ケンヂがテレビに出るたびに家族が何故か盛り上がった。母親は今でもケンヂの小ネタを私にぶち込んでくる。「運動神経がとても悪かったんだよ」とか、読んだこともないのに「彼はこんなナリしてなかなか良い文を書くんだよ」とか。そんな刷り込み教育のおかげで、ケンヂのことは勝手に贔屓していて、なんなら顔も「好きなタイプ」にカテゴライズさせて頂いていたのだが、ただ、じゃあ本を読もう、とまでは思わなかった。だがこの日、なんか、読みたくなったのだ。多分その当時の私はサブカル被れしていて、そのサブカルは全てヴィレヴァンから仕入れていたものだったので(みうらじゅんとかPerfumeとかね)、こんなにヴィレヴァンが変わらず支持し続けているなんて、サブカルの殿堂入りなのでは。。。!と思わずにいられなかったのも事実である。
そんなわけで、その日、3冊一気にまとめ買いしてやった。試しに1冊目読んでみて、はまったら続編をまた買いにこりゃ良いじゃない、とも一瞬思ったが、私にはハマる、一気読みする自信がどこかにあった。
案の定だが、ハマった。形から入るサブカル被れの私だが、純粋に文字が流れるように頭に入ってきて、その文字が情景を形作っていた。私の「この文の書き方、好き、嫌い」の判断は、文字に立体味が帯びるかどうかなのだが、文字がいつまでも文字、単語が単語のままで頭の中で情景が浮かばないものはなかなか先に読み進められないのだが、ケンヂは違った。踊るように、光るように言葉が立ち上がってきた。それでいて先が気になる。そんなわけで、1日で、とは言えないが、1週間でパイン編(3冊目)まで読みきった。読んだ後の、若者なりの生き方の歯痒さや、ダサさや恥ずかしさが身体にずしん、と来て、それでいて爽快さもあって、天を仰いだのを忘れない(いたい)。
ちなみにグミチョコは私的バイブルになり、留学先にも持って行ったし、帰国の際には、銀杏ボーイズ、ナンバーガール、あぶらだこが好きという少し変わったサブカルアメリカンボーイに託した。表紙だけでめちゃくちゃ喜ばれた。

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