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〈短編小説〉 早朝のルリビタキ

 今抱えているプロジェクトは、やり甲斐があり毎日が充実している。でも、その分やっぱり忙しい。今朝は頑張って1時間早い電車に乗った。1時間早いだけで、いつもと違う通勤時の景色。なんだかちょっと得した気分になる。

 でも、会社に着くと私は一番乗りではなかった。

「おはようございます。澤原さん早いですね」
「あら、川園さん今日は早いのね」

 澤原さんは、いつもより早い私に驚いていた。デスクの上に置かれたマグカップを見ると、コーヒーがもう半分以上なくなっている。挨拶もそこそこに、私はパソコンのスイッチを入れ、仕事モードに入る。就業時間前のオフィスは、電話もならず集中して仕事を片付けることができる。それにしても、澤原さんはどうして毎日こんなに早くから出社しているのだろうか。大きなプロジェクトにもあまり関わっていないし、いつもマイペースに仕事をこなしているように見えるのだが。

 なんでこんなところで電車が止まるのか。どうしよう、ここからなら、別の線に乗り換えて行けば、遠回りだけどなんとか間に合いそうだ。慌てて電車を降りて、階段を駆け上がる。オフィスにはギリギリ遅刻せずに到着した。今日は朝のミーティングがある日だ。資料は30分前になってようやくメールで届くため、いつもその日の朝に準備をしている。デスクに着くなりパソコンを立ち上げ、コートを脱ぐ。メールを開くと、資料が届いていた。急いで人数分印刷する。

「どうぞ、ギリギリになってすみません」
 同じ課の澤原さんにも渡す。
「ありがとう。事故で電車が途中で止まってしまって、大変だったんじゃない?」
「そうなんです。ギリギリ間に合ってよかったです」

 事情を知っていたのなら、この資料を先に印刷して配ってくれていてもよかったのに、と心の中で毒を吐いた。

「3号店のオープンまであと1週間になりました。社長の視察の日程ですが、秘書室から返事は入っていますか、澤原さん?」

 課長が聞くと、澤原さんは慌てて答えた。

「あ、すみません、あの、確認します」

 決して社員に怒鳴ったりしない穏やかな課長だが、一瞬表情が曇ったのを見逃さなかった。

「そうですか、ではその返事を待って、最終調整しましょう。じゃあ、今日のミーティングはここまでです」

 澤原さんはデスクに戻ると、慌てて秘書室へ電話をかけていた。

 3号店のオープニングイベントも無事に終了した。張り詰めていた糸がふと弛んだように、緊張感から解放された。今日はメールを開く前に、まずコーヒーを入れてしまおう。給湯室の食器棚を開くと、そこにはいつもあるはずのカップが並んでいなかった。

「まだ食器洗い機の中だね」

 同じタイミングで給湯室に入ってきた三好さんが背後から言った。慌てて食洗機を開けると、きれいになったカップやお皿がまだそこに潜んでいた。

「今日は澤原さんがお休みだからね。いつも澤原さんがみんなのカップや食器を、棚に片付けてくれているのよね」
「あ、そうだったんですね」 

 毎朝澤原さんがしてくれていたことに、今まで気がつかなかったなんて、自分が情けなかった。

「澤原さん、1週間の休暇を取ったんですってね。あまり休みを取らないから、有給たまっちゃって、課長に無理矢理取らされたみたいよ」
「そうなんですか。澤原さんってそういえば長期休暇とっているイメージないですよね」
「会社が好きなのかしらね」

 三好さんは冗談めかして言いながら、温かいコーヒーの入ったカップを抱えて、デスクへ戻っていった。

 カーテン越しに入る朝陽と共に、鳥の鳴き声が聞こえた。時計を見ると、まだ起きる時間まで1時間はある。でも、なんだか今日は早起きをしてみたくなった。

 オフィスにはいつもより1時間半も早く着いてしまった。ビルに入ると、清掃会社の初老の女性が、水の入ったバケツを抱えてエントランスホールをゆっくり歩いていた。途中、腰に手を当てながら、立ち止まり、そしてまた歩き出した。ホールの突き当たりまであのバケツを運ぶのだろうか。

「おはようございます。あそこまで運ぶんですか?」

 声をかけてそっとバケツの取っ手を掴むと、女性は振り返った。

「おや、ルリビタキさんが帰ってきたのかと思ったら、別のお嬢さんじゃないか」
「えっ?」
「毎朝このホールの奥まで、このバケツを運んでくれる女性だよ。どうしても1週間休まなければいけなくなったから、お手伝いできなくてすみません、って律儀に挨拶してくれてね。彼女の声が毎日早朝に私を起こしてくれる鳥、ルリビタキの声みたいだなあと思って、ルリビタキさんってお呼びしているんだよ」

 バケツを持って並んで歩いている間、女性は嬉しそうに語ってくれた。

「ありがとう。私は腰が悪いもので、こうしてこの距離を運んでもらえるだけでだいぶ助かるんだよ。私がこのホールにモップをかけ終わると、上から降りてくる同僚が最後にバケツを片付けてくれるから、あとはもう大丈夫なんだ」
「そうですか、いつもありがとうございます」

 私が立ち去ろうとすると、女性はまた話し始めた。

「ルリビタキさん、温泉に行くんだって言ってたよ。だからさ、饅頭ならいらないからねって言ったんだ」

 独り言のようにも聞こえるし、私に言っているようにも聞こえた。それから女性はモップをバケツの水に浸して掃除を始めた。

 オフィスにはまだ誰もいなかった。私はパソコンの検索画面で、「ルリビタキ」と打ち込んだ。鮮やかなブルーの小鳥が現れた。それはオスで、メスはベージュのような薄いオレンジ色の体毛をしている。鳴き声が聞ける動画があったので再生をクリックした。それほど特徴があるわけではない、よくある高く透き通った鳥の鳴き声が流れてきた。いや、しかしそれは、今朝私が目覚めた時に鳴いていた声を思わせた。ルリビタキ、うちの近くにもいるのだろうか。

 週が明けて出社すると、デスクの上にゴーフルのような薄い焼き菓子が置いてあった。

「これは?」
「澤原さんからですよ」

 隣の席のみよちゃんが教えてくれた。ちょうど薄いオレンジ色のブラウスを着た澤原さんが給湯室へ入る姿が目に入り、私も後を追った。

「澤原さん、お土産ありがとうございます。どちらへ行かれたのですか?」
「有馬温泉よ。久しぶりに実家に戻って、母と行ってきたの。母は普段から腰が痛いって言っているから、ちょうど温泉が効いたみたい。温泉と言えばお饅頭かなと思ったけど、今回はお饅頭じゃなくて、炭酸せんべいにしたの。食べたことある?」
「いいえ、ないと思います。ゴーフルかと思いました」
「フフフ、見た目似ているものね。味もそれほどは変わらないんだけどね。川園さん、仕事を始めるとひたすらパソコンと向き合って集中しているけれど、たまにはお煎餅でもかじって息抜きしてみてね」

 澤原さんはいつもより朗らかな声で言った。その声はなんだかルリビタキの囀りのように聞こえた。


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