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黒澤明とカズオ・イシグロの違いとは「生きる LIVING」感想
公 開:2023年
監 督:オリヴァー・ハーマナス
上映時間:102分
ジャンル:ドラマ
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突然、余命を宣告されたら、貴方はどうするでしょうか。
ある程度不自由のない暮らしをしているにも関わらず、生きている実感の沸かない日常。
そんな中、家族や誰かの為に生きてきた自分に、実は確たるものがなかったと気づいた時、途方にくれてしまうことでしょう。
映画「生きる LIVING」は、巨匠である黒澤明監督の代表作の一つである「生きる」を、ノーベル文学賞作家であるカズオ・イシグロが脚本を手掛けてリメイクされた作品です。
1952年公開当時の日本を舞台に作られた黒澤明「生きる」に対して、カズオ・イシグロ脚本、オリヴァー・ハーマナス監督による「生きる LIVING」は、1953年のロンドンが舞台となっています。
現代を舞台にするのではなく、あえて、同時代の別の国で行われているというのも、憎い演出だといえます。
さて、そんな「生きる LIVING」について、ネタバレを入れつつ、見どころについて語ってみたいと思います。
基本の物語は同じ
「生きる」は、病気で長くない、と気づいた主人公が、自分には何もないことに絶望し、やがて、自分の出来ることを行おうとする話となっています。
「生きる LIVING」も、オリジナルのパーツをほぼそのまま使っています。
ただ、そのパーツの使い方や、演出の仕方によって、物語の見え方が変わってくるのは、さすがといったところになっています。
海外の作品というのは、家族関係というのが非常に重要になってきます。
黒澤明「生きる」では、息子とは完全に疎遠になってしまっていますが、「生きる LIVING」では、お互い愛情を持っているがゆえに、お互いの気持ちがすれ違ってしまう姿が描かれています。
「生きる LIVING」は、家族との和解の物語でもあり、「紳士」であろうとする男が、自分にできることをしようとする物語となっているのがポイントです。
唄の違い
黒澤明監督「生きる」では、志村喬演じる主人公が、「ゴンドラの唄」という歌を歌います。
命短し恋せよ乙女、という歌いだしが有名な曲です。
若い女性の恋をするように促すような内容となっておりまして、これを、文字通り命が短い主人公が歌うと、別の意味になってくるのが泣ける点です。
「生きる LIVING」では、「ナナカマドの木」というスコットランドの民謡が歌われています。
こちらは、故郷を想う歌になっていまして、主人公であるウィリアムズ氏の、命が短くなったときに何を考えるかのスタンスの違いもわかるところとなっています。
どう生きるべきか。
どちらの主人公も、自暴自棄な行動に走ります。
「生きる」では、全身黒づくめのメフィストフェレス然とした男に連れられて、地獄めぐりのように、自分に合わない世界を体験させる一方で、「生きる LIVING」では、作家の男と夜の街を出歩いたりはしますし、帽子が新しくなるエピソードもでてきますが、それほど重要なくだりというわけではありません。
2人とも、結局、今までやらなかったことをやって、自分が何をするべきなのかで悩むところは同じといえば同じです。
また、老いらく恋と作中では言われますが、若い女性に生きる希望を見るのもまた、同じだったりします。
老いらくの恋は実らない
「生きる LIVING」では、ハリス女史が、主人公も含めてまわりの人間と、明らかに服装が違います。
主人公は黒っぽい服装であるのに対して、ハリスは、鮮やかな色の服を身に着けています。
若くて明るくて、自分にはないものを持っている。
現代でいえば、パパ活にも思えてしまうところですが、事実、「生きる」にしても「生きる LIVING」にしても、きっちり否定されているところです。
ただ、そのことがきっかけで、息子との関係が怪しげになったりしています。
主人公にとって、恋では全然ないのですが、その明るさや、生きていることに疑問を持たない姿に、羨望のまなざしを向けてしまうのでしょう。
そして、生きる、こととはどういうことかを分かった瞬間が、二つの映画で異なっているところが面白い点です。
ハッピーバースデーの歌
黒澤明監督「生きる」では、志村喬演じる主人公が、小田切とよという同僚の女性に、「課長さんも、何か作ってみたら?」と言われて、はたと気づきます。
黒沢明の演出ですと、もう、露骨過ぎるほどに、ハッピーバースデーの歌が歌われます。はい、主人公は生まれ変わりました、ここで初めて彼は生まれ、生きる意味を知ったのです、と宣言をしています。
一方で、カズオ・イシグロの「生きる LIVING」では、ハリス女史に、自分ががんで余命が長くないことを打ち明けるわけですが、こうしたらいいとか、ああしたらいいとかは言われません。
ウィリアムズ氏は、ハリス女史に、自分ががんであること、ハリス女史の明るさについて語りながら、自分自身で気づくのです。
「生きることなく、人生を終えたくない」
自分自身の気持ちに、自分で気づいて、彼は、自分がなすべきことを自覚するのです。
彼が、夕暮れ時に、母親を待つ子供のことを話す姿は、「ナナカマドの木」の内容にも重なります。
いつも懐かしく思い出す。
幼き日の思い出に。
優しく寄り添う木よ。
過去を想う歌で、自分自身のなすべきか、大人たちは、何をするべきなのか。
心に浮かぶ母の面影を思い出し、彼は、ようやく、生きるのです。
黒沢明の演出は、これでもかとわかりやすいところですが、話しをしながら表情が明るくなっていく役者の演技力や表情が、また見どころだったりします。
演出が奥ゆかしい点がいいですね。
この先について
ここからはネタバレなので、いずれかの作品をみた人だけ、ご覧ください。
本作品は、2部構成になっています。
前半は、主人公が生きる、までを描きます。
そして、後半は、死んだあとを描くのです。
「生きる」では、主人公の死に感化されて、やる気を出す職員たちですが、もう次の日には、そんな決意なんかは忘れてしまい、困っている市民がきたとしても、かつてのようにたらい回しにしてしまいます。
「生きる LIVING」も、汽車の中で、誓いを立てよう、と言ってウィリアムズ氏の死を無駄にしないように、前向きな姿勢となっています。
酒の席を真に受けた男が、肩透かしに合うような感じになってしまうオリジナルとは異なり、素面でしっかりと宣言をする点で、「生きる LIVING」は異なるところです。
ですが、お役所という場所なのか、日々の忙しさは、少しずつ生きる意味を人間から奪っていくのか、やはり、たらい回しにしてしまいます。
オリジナルとの違いは、この後となっていまして、やはり、大きな流れには勝てなかった新人のウェイクリング氏ですが、彼は、最後に生きていた彼を見かけた警察官と出会います。
オリジナル版でも、ブランコに座っていた主人公を見かけた警察官はでてきますが、「生きる LIVING」では、ウェイクリング氏と、警察官の二人で話をして、その二人の心の中には、ウィリアムズ氏の遺志が芽を出していることがわかります。
また、「生きる LIVING」では、主人公自身がウェイクリング氏に向けた手紙を書いており、その中で、自分の仕事は近いうちに忘れ去られたりしてしまうことを示唆しているのもポイントです。
無くなったり、失われるのが悪いことではなく、そういうものだ、ということも含めて、後進の人間に伝えている点で、ちょっと、バットエンドな雰囲気のオリジナルとは異なり、悪いだけではない未来を暗示させる内容になっているところは、非常にポイントの高い点だといえるでしょう。
名作もまた、解釈次第
全然関係のない話で最後終えたいと思いますが、歴史を取り扱った作品というのは、解釈一つでいくらでも見え方が変わるものだったりします。
大河ドラマの坂本龍馬と、みなもと太郎による漫画「風雲児たち」の坂本龍馬では、雰囲気は全く異なります。それは、織田信長だろうが、三国志における登場人物たちでも同じことです。
歴史的事実は変えられないけれど、そこで起きた物事をどう解釈するか、捉え方で物語が我々に与える印象と言うものは変わるものだったりします。
「生きる LIVING」は、オリジナルへのリスペクトがこの上なく詰まっている作品です。
原作で、とよが工場でつくっていたウサギのおもちゃが、ほぼそのままの形ででてきますし、その他、原作のポイントをしっかり押さえています。
舞台こそイギリスになっていますが、オリジナルのポイントを使いながら、異なる印象の作品に仕上がっているという点でも、見どころのある作品となっています。
もし、どちらか片方がしか見たことがないという方がいましたら、是非、両方の作品を見比べてみてもらいたいと思います。
以上、黒澤明とカズオ・イシグロの違いとは「生きる LIVING」感想でした!
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