見出し画像

藤本タツキ 漫画感想「ルックバック」


漫画アプリ ジャンプ+で無料公開されて、一気に話題となった漫画「ルックバック」。

作者である藤本タツキ氏といえば、体が常に燃え続けている男の復讐を描く「ファイヤパンチ」や、悪魔が存在する世界「チェンソーマン」等が代表作となっております。


世界設定が特殊な藤本タツキ氏の漫画の中で、現代を舞台に書き下ろし作品として一挙公開された「ルックバック」について、見どころを含めて感想を述べてみたいと思います。

クリエイターという生き物


本作品は、学級新聞に四コマ漫画を載せていた主人公藤野と、引きこもりをしていながら、同じく4コマ漫画を投稿した京本の、二人の人間を軸に、クリエイターという生き物を見事に描いた作品となっています。


特に、漫画に人生をかけた人間を描く作品としては、「バクマン」なんかは有名でしょうし、古典的な名作としては「まんが道」なんかもはずせないところです。


クリエイターというのは負けん気が強いのが特徴となっておりまして、「ルックバック」においても、小学校の中で4コマを書くのがうまいねー、ぐらいのレベルであった藤野の、ささやかな自尊心を高めてくれるツールとして機能しているのが、イラストや漫画だったはずです。

このあたりは少年漫画でもたまにありますが、なんでもそつなくできる主人公やライバルが、相手への怒りや嫉妬から、努力を重ねて成長していく、なんていうのは王道といえば王道です。


ライバルの存在が、その人間の才能を開花させるというのは、よくある話ではありますが、主人公は、引きこもりをしている京本の絵を見て、激しい嫉妬を覚えるのです。

「でもアレだな、京本の絵と並ぶと藤野の絵ってフツーだな」


井の中の蛙大海を知らずとはこのことで、藤野は、競争相手が一切いない学級新聞の中にありながら、初めて他人を意識することになります。


その後、彼女は、内心バカにしていたはずの4コマ漫画の為に、絵の練習をはじめ、青春を費やしていくようになるのです。

時間経過の描き方

「ルックバック」で面白いのは、その時間経過の描き方です。

映画的な手法で描かれている場面も多いのですが、特に印象的なのは、主人公の背中でしょう。

机に向かって漫画を書く作業。

風景は変わっても、彼女のやっていることは変わらない

参考にしている資料の数が増えていき、漫画家になってからは、単行本の数が増えていく。

その瞬間瞬間において楽しいことはあったでしょうが、あくまで、我々に背中を向けながら、主人公は漫画を書いていく姿を見せていく、という点が「ルックバック」でのイラスト的な面白さでもあります。

「ルックバック」というタイトルを複眼的に捉えることができる点もよくできています。


クリエイターという人間の業


さて、このあたりからはちょっと面倒な内容について言及していきたいと思います。ネタバレ含めての内容となりますので、もし気になる方は、ぜひ読んだあとに戻ってきて頂ければと思います。


本作品は、クリエイターという人間の業(ごう)を描いています。


本作品には、創作を志すものがもってしまう物語を生み出すことによる業というべき事柄がしっかり描かれています。

そのため、創作するということを今までやっていない人には、深く刺さりずらいかもしれません。ですが、創作したことのある人間であれば、登場人物たちの心情が痛いほどにわかるはずです。


「ルックバック」の内容を簡単に言ってしまえば、小学校の時の友人と一緒になって漫画家になったものの、途中で分かれてしまった友人が死んでしまい、それを悔みながら、漫画を書き続ける、という内容になっています。

悔みながら、という点については、解釈や考え方はあると思います。

並行世界の話じゃないかと、いった、ファンタジー寄りなSF設定や、IFを描いたものと考えることもできるでしょう。

IFを描く作品としては、特にアニメにおける「打ち上げ花火 下から見るか横からみるか」で意識的に作られています。

もしも、自分が彼女と出会っていなかったら、彼女は生きていたんじゃないだろうか、という創造(想像)をしてしまうところにこそ、クリエイターの業があると思います。


人生にもしも、なんていうのはありません。

ですが、物語をつくる人間はどうしようもなく考えてしまうのです。

自分を救うのは自分しかいないという側面がクリエイターにはあって、かけがえのない友人が亡くなってしまったのであれば、何とか生き返らせる方法がないか、と考えてしまうのもまた仕方のないことなのです。


少しだけ話はずれますが、「鋼の錬金術師」という漫画の中で、主人公であるアルフォンスは、母親が死んだとき、人間を錬成しようとします。

結果として化け物が作られてしまって、人体錬成が禁忌である事実ともっと大変な罪を背負うことになってしまいます。

あるいは、友人を亡くした錬金術師が、禁忌とわかっていながら人体錬成の方法を考えてしまう、といった描写があったりします。

それが不可能であることがわかっていても、自分の力によってふと、生き返らせることができるんじゃないか、と思ってしまうのは、力のあるものがつい行ってしまう業の結果なのだと思います。


「ルックバック」においては、それが、クリエイターとしての創造によって行われるというところが憎い演出だと思います。


ありえたかもしれない自分

さて、主人公の友人である京本は、美大に侵入してきた人物によって偶然殺されてしまいます。

そこには、理由や必然は存在しません。

京都アニメーション放火事件等を引き合いに出す人もいますし、その事件の根っこに近い部分と、その原因は似ていなくもないですが、「ルックバック」においては、それは、もうちょっと異なる見方をしたほうが、その必然性が読み取りやすくなります。


どういうことかと言いますと、「ルックバック」は、一見成功者の話にみえます。

もちろん、主人公は、漫画家として大成したようですし、これからも漫画を描き続けるでしょう。

でも、一方で、主人公は、ありえたかもしれない世界を考えてしまう人間でもあり、作品においても、成功しなかった主人公もいたかもしれないという、視点で見たほうがいいのです。


つまり、自分が(挫折した人間や、他人の才能を呪って事件を起こした)その人間だったかもしれない、という現実です。


誰しもが主人公のように努力や才能で漫画家になれるわけではありません。

かつての主人公のように、才能があったとしても、まわりの友達に「全然遊んでくれなくなっちゃったし。一緒にいても絵ばっか」とか、

「中学で絵描いてたらさ、オタクだと思われてキモがられちゃうよ」

と言われて、平気な人はどれほどいるでしょうか。

主人公である藤野は、その程度の言葉では全然気にした様子はありませんでした。

様々な人たちによる圧力を受けながらも耐えた藤野ですが、京本の画力をみて一度は挫折してしまいます。

それでも、主人公は創作に戻ることができましたが、当然、そこに至らない人も多いはずです。

また、共同で創作をしていたとしても、主人公の深奥にあるのは、友人の才能に対する深い嫉妬や焦りがあることが間違いありません。

ですが、才能も無く、才能に対する嫉妬ばかりが増大した人間がいたとしたら友人を殺していたのは、主人公だったかもしれません。

美大に侵入した犯人は、アイデアを盗用された云々をつぶやいており、他人の才能への怒りや嫉妬があったと思われます。

精神に異常云々というのは、いわゆる世間的なアナウンスということで書いていると思いますが、才能に対する反応の一つを描いた場面だと思いました。


嫉妬を力に変えるのか。怒りや暴力に向けるのか。

「ルックバック」は集英社の掲載された漫画ということもあり、もしもの世界では、そんな悪漢を助ける側にまわったのでしょうが、描き方を変えていたら、無差別殺人の犯人は、主人公自身だったかもしれないはずです。


創作というものに魂をとらわれた人間の業が描かれた作品であり、誰にとってしても、才能の物語として共通のものであるからこそ、多くの人の心に届いたのではないでしょうか。

友人との関係という点に着目したり、事件性に注目したり、隠されたメッセージ(オアシスの歌のタイトル云々)といったものも確かにありますが、一番深奥にあるテーマこそが、ズシンとくる理由なのだと思います。


以上、藤本タツキ漫画感想「ルックバック」でした!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?