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「平家物語」(古川日出男訳)を読んでみた

死ぬまでには読んでおきたい本。
3年前くらいに買った「平家物語」をつい最近、読み終わりました。
河出書房新社から出ている池澤夏樹責任編集のシリーズものの一冊。
分厚いです。
机にどどんと縦置きできます。
(※この記事は、わたしが主宰している映画メルマガ「僕らのモテるための映画聖典メルマガ」の連載から一部抜粋して転載しています)。

「平家物語」といえば、有名なのは書き出し。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

という、あれです。
このあと、こう続きます。

「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」


はい、ここまでです。
教科書に載っていたのを丸暗記させられたわたしの知識としては、これで終了。
この後を約1年がかりでちょっとずつ読んでみたのでした。
平家の勃興から平清盛の死、そして源平合戦へ。
最後まで読み切れたのは、現代語訳が面白かったから。
訳者は小説家の古川日出男さん。
お見事! です。
こんなにワクワクしながら古典を読み終えられるなんて、最初は思ってもいませんでした。

が。しかし。
べべん。
撥(ばち)。
はっ。
どこからか声がする。
読め、と。
歌え、と。
ここに、日本の歌がある。
というのが、古川さんの訳のテンション。
「平家物語」は琵琶法師によって口伝されたので、読むというよりは、聴く、なんですね。
誰が誰に向かって語っているか、というのを訳の中に入れこんで、現代のわたしたちにもわかりやすく伝えてくれています。
だから、とてつもなく「いま、ここ」感がある。
素晴らしい活劇、そして敗者たちの哀しい末路。
読み終わると、もっとこの世界を深く知りたくなります。
平家たちが落ちていった四国や山陰山陽を旅したくなります。
わたしは、「今年、壇ノ浦に必ず行こう」と心に決めました。
ああ、ここでみんな海に沈んでいったんだな、と。

読んでいて、職業病なのか、「ここは映画になるな」と考えてしまいます。
平家が一世を風靡して都で贅を極めているのは、あまり映画的ではありません。
どちらかという絵画とかの方が面白いはずです。
やっぱり「平家物語」は滅びの美学。
『仁義なき戦い』シリーズのような世界なのです。
堕ちていく人、騙される人、死んでいく人、残された肉親。
そんな人たちこそ輝きます。

たとえば、政略戦争に負けて、九州に島流しになった3人がいます。
当時、九州はほぼ「鬼ヶ島」でした。
京の都から見たら、この世の果て。
食うにも困る生活を続けた果てに、2人だけが罪を免じられ帰京を許可される。
だけど、1人だけは島に残るハメになる。
その孤独。その悔しさ。運命の皮肉。
これなんかは、昔なら川谷拓三さんがぴったりでしょう。
浜辺で砂を口に頬張って、おもいきり呻く姿が目に浮かびます。

個人的には、木曾義仲のくだりも好きです。
いわゆる「荒ぶる猛者」。
源氏の特攻隊長みたいな感じで、戦に勝ち続け、平家を次々と蹴散らして京都入りする。
だけど、山育ちなので、典雅さに圧倒的に欠ける。
都でのお公家さんとの付き合い方なんか知らない。
そして、疎まれる。
やがて総大将である源頼朝に反逆者の烙印を押されて、追い詰められていく。
この無常さ。
戦さのダイナミックさと、山育ちの義仲のキャラクターは、ぜひジョージ・ミラー監督あたりに撮ってほしいところです。
ギリシア神話みたいな映画になるかもしれません。
最後は、馬ごと沼にずぶずぶハマって死んでいきます。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ばりに雄々しい。

というわけで、夢はどんどん膨らんでいくのでした。
ちなみに、今、時代劇はどんどん厳しくなっていっています。
特に、活劇や合戦を撮るのが難しいです。
まず、昭和の頃みたいに撮影で借りられる馬がいません。
当時は撮影用に馬を調教していたのです。
だから、大映や東映では馬での合戦シーンをたくさん撮れました。
名作が次々と生まれました。
黒澤明監督の映画もそうです。
でも、いま黒澤明監督が生きていても、かつてのような映画は撮れません。
馬も、技術も、スタッフも減じているからです。
状況はどんどん厳しくなっています。
なので、10年後、とか悠長なことは言っていられません。
明日にでも時代劇を撮りたい。
まだかろうじて数頭は馬がいて、昭和の頃の技術を持ったスタッフさんがいるうちに。
ということで、勉強は続きます。
今度は、「日本霊異記」「今昔物語」あたりを読んでみようかしら。

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