#おうちで映画 『精神0』
#おうちで映画 新作篇
『精神0』
(監督:想田和弘/2020年)
5/2 @仮設の映画館(シアター・イメージフォーラム)
◯予告篇
◯初日舞台挨拶(YouTubeライブ)
◯本篇配信
「ドキュメンタリー」と聞いて、
平成ヒトケタ・世紀末生まれの僕が連想するもの。
例えば「プロジェクトX」「プロフェッショナル 仕事の流儀」「ザ・ノンフィクション」。
どれも内容理解のためのナレーションが付されている。
ドキュメンタリー番組といえば、これがふつうだと思っていた。
というか、思っている。
ドキュメンタリーに限った話ではない。
コミック。アニメ。テレビゲーム。
報道なのかよく分からない夕方のワイドショー。
ゴールデンのバラエティ番組。
僕らの世代は、最初から(見せかけの)分かりやすさに囲まれて生きている。
頭を使わなくてもそれなりに楽しめて、
分かったようなつもりにしてもらっている。
だから、考えない。
「俺は、私は、めちゃめちゃ考えて生きている。バカなお前と一緒にしないでくれ」
そんな同世代の声が聞こえる。
否定しない。
その通りだと思います。
ただ僕がボーッと生きているだけだと思う。
(チコちゃんに叱られちゃうかも。。。)
だからこそ自戒を込めてこの映画をレビューする。
本作にナレーションはない。
もちろん映画だから、映像の編集は施すのだけれども、
聞こえてくるのは全て被写体となった人々の声ばかりだ。
作り手は基本的に観察者に徹している。
「これはこういう意味ですよ」「この人はこういう過去があるんですよ」
そんなツアーガイドが不在なものだから、分からない。
お世辞にも明瞭とは言えない作中人物の言葉を頼りに、観賞者は想像するしかない。
故に、立ち止まることができる。
いかに自分が思考する機会を逸しているかを気づかせてくれる。
スクリーンに映し出されている人たちについて、表面には見えないものを見ようとする。
その人の居住まい、動作、喋り方、息づかい、まなざし。
森達也氏によれば、
ドキュメンタリーというのは本来こういうものらしい。
なるほど、これが氏の言う「欠落」か。(※1)
そういうわけで、このような「当たり前のドキュメンタリー」の形が、
「ゆとり教育世代」の僕にとっては新鮮なのである。
僕らが生まれ育ったのは「失われた云十年」などと呼ばれる時代だ。
地下鉄サリンや9.11以後の「テロ特別警戒」が恒常的に敷かれている世界がデフォルトだと思っている。
そこに何かの違和感すら感じない。
それ以前の時代の空気なんか、知る由もない。
だが幸か不幸か、僕らは記録する術を知っている。
記録によって、去りし時代を生きてきた人々の営みが密封されている。
記録。記憶。空気。息づかい。
知り得ないのであれば、「欠落」だらけのそれらから想像するしかない。
そのためのリファレンスとして、本作と(このような形ででも)出会えたことは、
僕にとって幸運であった。
それだけは間違いなく言える。
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(※1)森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』
158~165頁「この世界を滅ぼすのは進化し続けたメディアかもしれない」