『言えなかった小さな秘密』(短編小説)

田代早紀は紙袋から取り出した本の見覚えのある表紙を見つめながら、驚きと申し訳なさと喜びで溢れかえった心をなんとかなだめた。そして「ああ、ほんとうにありがとう」と何とか絞り出した言葉のあまりにも空虚な響きに更に申し訳なくなっていた。

田代早紀は3月に誕生日を迎えた。今年で25歳になる。社会に出て3年が経とうとしていた。仕事にも慣れてきて4月からの新人研修にチューターとして参加することが決まっていた。社会人となってからは大学生活を送った神奈川を離れ、大阪に住んでいる田代には佐々木詩音という友人がいた。

田代が佐々木と出会ったのは社会人1年目の初夏の頃。田代は初めての仕事と、住み慣れない大阪という街での生活に押しつぶされそうな日々を送っていた。田舎で生まれ育った田代には人が多いこと、ビルばかりの景色であることも疲れの原因となっているようだった。些細なこととはいえ、そういった小さな疲れも蓄積すると怖いものだ。仕事柄人と話す機会も少なく、地元の友人はみんな関東に残っている上に、人付き合いに時間を要する田代にはまだ悩みを打ち明けられるような友達もいなかった。一人閉鎖的な空間で悶々とすることは精神衛生上よくない、と田代は思い切って散歩に行くことにした。お酒も1人で外食することも苦手な田代にはBarや居酒屋に行くことが憚られたのだ。1人で行けばそういった場所では必ずと言っていいほどカウンターに通される。田代には目の前に立つ見知らぬ人に監視されながら酒やご飯を楽しむということができなかった。手が震えてしまうほど緊張してしまうのだ。手が震えているという事実が更に田代の手を震えさせ、まともに水も飲めない緊張状態へと追いやる。田代はカウンターに立つ店員さんから「変な人」と思われることを過度に恐れていた。今後一切関係を持つことなどないであろう人間にもよく思われようとする田代の肥大したエゴは留まることを知らない。だから田代はとりあえず家という閉鎖空間から抜け出すことだけをまずは決意した。肥大したエゴと向き合うのはまた今度にした。

田代にとって散歩は思いの外、解放と癒しを与えた。人と話すことも無いのだが、不思議と頭が整理されて感情が整うのを感じた。規則正しいリズムで歩みを進めながら田代は日々の雑念から解き放たれ、しっとりと湿気を含んだ夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。遠くで鳴るパトカーのサイレンや、川に映るビルの明かり、すれ違うOLの甘い香りやなんかに包まれながら橋を渡る。明るい道を避けて、人気のない夜道を歩きながら闇と同化した自分の存在感の薄れ、空間と一体化したような錯覚から得られる解放感と癒しに満たされた田代は気付けば鬱蒼と木の茂った公園へと辿り着いた。

公園の名前が書かれた看板があったが、田代にはその名前の読み方が分からなかった。入口らしきものは見えるが生い茂った木々と夜の闇で広さが全く分からない。迷い込んだが最後、出てくることはできないかに思われたが、恍惚状態の田代に怖いものはなかった。歩みを進めた。暗がりに浮かび上がる像や白い花を横目に田代はずんずん進んでいく。人気はない。水の音がした。噴水があった。その近くに置かれた鉄製のベンチに吸い込まれるように田代は腰かけた。水の音を聞きながら田代は日々の生活に思いを馳せた。家で考えているとどうも暗く暗くなっていく仕事のことが、この場所ではそんなに悪いようにも思えなかった。

一体どれくらいの時間が流れたのか、田代には分からなかったが、煙草の香りが漂ってきて田代は1人の男がこちらを見つめているのに気が付いた。男はベンチから少し離れた場所にある灰皿に短くなった煙草を押し付けて、田代の方へと向かってくる。田代はやや警戒した。田代は決して女性らしいタイプではない上にナンパをされるような人生は送ってこなかったが、このような人気のない場所で男と二人きりになることはいくら色気のない自分であっても危険が伴うと考えていた。男は若く見えた。ゆるっとしたTシャツに描かれたバンドのロゴと少し長く伸びた髪。バンドマンのような、ゆったりとした自由な風を身にまとっている。田代は男から視線を外さずじっと身を固くしながらその動きを見ていた。男は田代に視線をやりながらも、何か話しかけるそぶりはなく、無言で田代の座るベンチの反対側の端に腰掛けた。田代は少しでも男と自分の間に距離を作りたかったがベンチの真ん中よりでやはり身を固くしていた。男と田代の間に沈黙の時間が幾ばくか流れた。

田代がそろそろ立ち上がって逃げ出そうかと考えていた頃、男が口を開いた。「突然こんなことを聞くのも申し訳ないのですが、お姉さんが好きなおにぎりの具はなんですか」田代はちらりと男に目をやったが、男は噴水を見つめたままだった。しかしその問いは明らかに田代に向けられたものだった。十数秒の沈黙の後、田代は「ツナマヨ、です」と言葉を区切りながら慎重に答えた。相手の意図が読めない上に、この答え次第で自分の数分後の未来が決まるかもしれないという恐怖で田代は怯えていた。「そう、ですか」と男は答えた。「やっぱり、お姉さんもおかかは選びませんか」と男は独り言のように呟いた。

この男が佐々木詩音だった。佐々木はその後、きちんと田代に謝罪し怪しい者ではないと弁明した。佐々木詩音、27歳サラリーマンは忙しい生活を送る傍ら、好きなおにぎりの具という切り口での心理テスト確立にいそしむ風変わりな人間だった。田代が名前を読めなかった公園は佐々木の行きつけの公園だったらしい。職場の人間におにぎりの具を聞き尽くしてしまったため、夜な夜な公園に出没して暇そうな人間に声をかけては好きなおにぎりの具を聞いているという。佐々木曰く、「好きなおにぎりの具は何か」と聞かれて大抵の人間はツナマヨとか、鮭とかと答えるらしい。「おかかと答える人間を探しているんだ」と真剣なまなざしで語る佐々木を見つめながら、田代は佐々木の変人ぶりをどこか憎めずにいた。自分にも変なところがあると思い悩むこともあり、社会で生きていくことに不安を覚えていた田代は、佐々木の話を聞く内に佐々木のような人間であっても社会で生きていけるのだからと安心を覚えた。社会に出たばかりの孤独な田代には佐々木との出会いが、奇妙ではあるが、希望にも思えた。

田代と佐々木が出会って3年近くが経とうとしていた。夜な夜な散歩しては意味もないことを話したり、最近ハマっていることを共有したり、そんな日々を送っていた。仕事にも慣れてきた田代は社会で自分をすり減らされながらも、佐々木との時間で自分を取り戻せるような心地がしていた。恋人、というより仲間という表現の方が田代にはしっくり来ていた。だから3月の自分の誕生日に佐々木から「プレゼント」と紙袋を差し出された時、田代は心底驚いた。そしてとても嬉しかった。一体何だろう、とはやる気持ちを抑えながら「中見てもいい?」と佐々木に尋ねた。「もちろん」と頷く佐々木。田代はいそいそと紙袋から中身を取り出した。それは2冊の本だった。見覚えのある表紙を見つめながら、田代は驚きと申し訳なさと喜びで溢れかえった心をなんとかなだめた。

その2冊の本は田代の大好きなイラストレーターの書籍だった。田代は以前そのイラストレーターの話を佐々木にしていた。シンプルな線だけで描かれるイラストの魅力について、その線の温もりと表現するものの多さについて語った。佐々木はきっとそれを覚えていてくれたのだ。でも田代は既にその書籍を持っていたのだ。2冊とも。田代は様々な感情で上手く言葉が出てこなくなりながら、とにかく佐々木に感謝した。

田代は言ってしまっても良かった。「実はこれ、もう持ってて…」そう言ってしまえないような関係性ではなかったはずだ。でも田代はどうしても言い出せなかった。佐々木の気持ちを配慮しながら話すことがその時の田代には難しかった。感情の器がいっぱいになると人は言葉を失うらしい。人から本を貰うということも嬉しかった。その本が自分も欲しいと思う本だったことも嬉しかった。佐々木が誕生日を覚えていてくれたのも嬉しかった。好きなイラストレーターのことを覚えててくれたのも嬉しかった。そして、佐々木と自分の思考回路が重なったことが何よりもうれしかった。「お前は変わっている」と言われ続けてきた田代にとって、人と同じであることを感じる喜びは何物にもかえがたいものだった。その喜びで胸がいっぱいになった田代には、今の状況と感情を佐々木に説明する言葉を紡ぐことが難しかった。田代の感情の器は喜びで溢れかえっていた。

そうしてとうとう「実は持っている」と佐々木に言う機会を逸した田代は、小さな秘密を抱える罪悪感を初めて佐々木に覚えた。元来、田代は嘘が苦手なのだ。空疎な形だけの言葉に感情を込めることが田代には難しかった。それに田代は佐々木に対して今まで秘密を抱えたことはなかった。たとえ小さな秘密であっても、佐々木に嘘をつくというのは、何か罪を犯してしまったような罪悪感を田代に与えた。家に帰って本棚に並ぶ2冊ずつの本の背表紙を眺めながらいつか佐々木に言おうと誓った。


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