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散歩の帰り道

昨日は久しぶりに大学時代の友達に会って、散歩に繰り出した。仕事を始めてからこの街に引っ越してきたのだが、この街には巨大人工物が多い。それは私にとってとても嬉しいこと。散歩の話の前に、少し、私と巨大人工物について話しておこう。大学入学と同時に1人暮らしを始め、山に囲まれた盆地から飛び出して海が存在する場所へとやってきた。海と聞いて人はどんなものを思い浮かべるのだろうか。白い砂浜、透き通った海、眩しい太陽、とかそんなのだろうか。私も大体そんなところだったのだが、街にある海というものはそんな海のイメージからかけ離れていた。そしてその海は私を幻滅させるどころか魅了した。

港の海を眺めて真っ先に目に入ってきたのは、赤と白の巨大人工物。名前はよく知らなかったのだけれど、調べてみたらガントリークレーンというらしい。私はガントリークレーンに一目惚れした。盆地で生まれ育った人間にとってガントリークレーンはあまりなじみのないものだ。最初は物珍しさから興味を惹かれたのだが、いつしか港にやってくるとガントリークレーンを心待ちにしている自分に気が付いた。そして昼間に見るガントリークレーンも立派なものだが、夜、明かりのともったガントリークレーンはもっと幻想的で美しい。遠くから眺めるのでは飽き足らず、近くで拝みたいと、わざわざ家から30~40分以上かけてチャリで夜のガントリークレーンを見に行くこともしばしばだった。本当に美しいのだ。そしてそういった港は人気がない。孤独を感じるほどにだだっぴろくて、静かである。時折ブザー音や何らかの車両が走る音が響いてくる。近くに住宅街があるわけもなく、通行人もたいがい私ぐらいしかいない。しかし、きちんとその姿が確認できなくとも、そこで働く人が確実にいることを視覚からではなく、肌身で感じ取れる。そのまばらな人のあり方が私にはとても心地よかった。

長く住んだ実家は田舎で、1人になりたいなどと考える必要もないほど、街中を歩けば1人になれた。誰の目も気にせずぶらぶら歩き回れた。しかし都会はそうもいかない。常に誰かの目がある、ような気がする。ガントリークレーンに導かれて訪れた港は、どこかそんな田舎の雰囲気と似ていたのかもしれない。どこをどう見ても、山に囲まれた盆地の景色とは似ても似つかないものなのだが、人のあり方の点では少し似ているかもしれない。姿は見えなくても、そこにいる、と感じることができる。

ガントリークレーンに関して話し始めたら思いのほか故郷のことに話が繋がり、長くなってしまった。さて本題の散歩に話を戻そう。

4月から住み始めたこの街にも、港がある。勿論ガントリークレーンもある。昨日は街を一望できる展望台のある所へ向かったのだが、この街には更なる魅力がありそうだった。ビル間をうねるように通っている高速道路らしきものだ。前に住んでいた街にも高速道路的なものを間近で見ることができたが、ここではその規模感と複雑度合いが全然違う。入り組んでいる。木が根っこや枝を四方八方へと伸ばして絡み合うように、元からそこに生えていて自然とそうなったとしか思えないような複雑さ。

巨大人工物は私にとって、ちっぽけだとも偉大だとも感じさせる矛盾を孕んだものだ。その大きさに圧倒されてああ自分含めて人間というのはちっぽけだなあと感じることも、本当に人間がこんなものを作ったのか、人間もやるもんだなあと感じることもある。元来、自分は矛盾したものが大好物である。巨大人工物にもうひとつある矛盾は、人工物であるが故の異質さと調和だ。当たり前だけど、人工物は人間が勝手に作ったものだ。それ故どこか浮いている感じがする。盆地に住んでいた人間だからこその感覚ともいえるが、かなり異世界感が強い。さびれた工場なんかが近くにあると、よりその雰囲気は異質になる。しかし、その一方で空や海と調和しているようにも見える。木々の緑がどこまでも青い空と調和するように、調和している。個人的に、夜の闇に包まれた巨大人工物は更にその異質と調和の矛盾を増して、美しい。不思議だ。

散歩を通じてそんなこの街に潜む魅力を発見できたのは良い収穫だった。この街もいつか故郷のように、懐かしく思う日が来そうだ。そして本当に話したかったことは散歩の帰り道の話だったのだが、全然その本題に入れなかった。ということで次の投稿で改めて散歩の話を書こうかな。今回はここまで。

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