陽は射すも扉開かず

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母は山を超えてしまった。「しまった」と思ってしまった。回復が望めないまま寝たきりになる。それは本人が一番望まなかったこと。父がそんな状況になった時は、いつの間にかどんどん増えていくチューブを見ながら「あれは避けたい、私の時は延命はしてくれるな」と言っていたし。だけど延命と治療は違う。ここは救急病院。積極的治療を施す場。その行為が延命に当たるかどうかの境界線も、引かれていたり点々になったりボヤけたり時には歪んだり。「これは延命になるんですか」「…と受け取る人もいます」 この後、何度も繰り返されることになる医者とのQ&Aだ。

母のチューブは増えない。むしろ減っていく。回復、ではないのだが、超低め安定、というところか。要は、原因である脳出血とそれに伴う腫れの広がりが、恐れていたほど脳幹を圧迫することなくおさまったわけだ。これが基礎体力というやつか。前回の脳出血までは病院知らず風邪知らず、胃腸も丈夫な人だったから。しかし今回の出血による脳へのダメージはそのまま。即ち意識の回復は無い、と医者は言う。

母の場合は前回もここに運び込まれたからいわばリピーターだが、実家のエリアで救急車に乗ったらおおよそここに行き着く。父方の親戚も一様にここだった。それなりに大きな規模の、とにかく忙しい病院だ。見舞いに行けば必ずと言っていいくらいピーポーピーポーと一度は救急車が入ってきて、患者ひとりに付き添い数名、ここから生活が変わるんであろうグループが仲間入りしてくる。医者だって看護婦だって、大っぴらじゃないが心じゃトリアージなんじゃないか。だとしても無理はない。

母はほど無くして一般病室へ移された。集中治療室も常時満室なのだ。とはいえ要見守り。移動先はナースセンターのすぐ隣の2人部屋だった。見舞客やナースや医者や、掃除スタッフや介護スタッフや、歩行リハビリ中の患者やトイレに行く患者、が、ひっきりなしに通る大混雑ジャンクション。相部屋は虚空を仰ぐお婆さんで、その片手が時々、宙を舞う。目がこっちを見てるから意識はありそう、なんてことを弟たちと噂する。

医者はああ言うけど、母ももしかしたら反応できないだけで周りで起きていることは聞こえていて理解していたりして。そう思うから話しかけてみる。父が亡くなった時、「最後にありがとうとか言ってもらえるのかな、テレビみたいに、と思っていたけど何もないまま終わっちゃった」とボヤいていたので、「ありがとね、私たちは大丈夫だからね」と耳元で言ってみたりする。隣のお婆さんに聞こえているかも、と思うと恥ずかしいやら、彼女の家族は見舞いに来ているんだろうかと勝手に心配するやら。

そして母には聞こえていてほしいけど、それがイコール自分の状況を理解しているということになるのなら、むしろわからない方がいい…ってことは何? 私は母の意識が戻ることを望んでいない? どころか早く終わればいいと思ってる? 正直、思っていた、と思う、死なせたいって。死なせてあげたい、かな。「あげたい」を付けたところで同じことだけど。今こうして文章にしてみると恐ろしいことだ。と同時によく思い出していたのが、昔のご近所マダムから立ち話で聞いた「母親ってものはね、どんな状態でも生きているだけで心丈夫なものよ」という言葉だった。そうかもしれないけど、でも、どうなんだろう。

ともあれ、見舞いの日々が始まった。時には実家経由で、時には真っ直ぐ都内の自宅から。実家から病院は歩いて15分ぐらい。道のりの多くは保護林の中で、その先は畑。カラスウリが見事にオレンジ色だった。自宅からだと病院の最寄駅から送迎バス、もしくは歩くとやはり15分、いやもっとかな。夕方になることがほとんどだったので、駅に戻る道は西日がキツかった。12月のことなのに、記憶はなんだか秋の風景だ。沿線は折から高架化の工事中で、覆いの中でこっそり組み立てられていたコンクリートの橋がその全貌を現すまで、病院通いは続くことになる。

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