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カラマーゾフの兄弟・第一部

オフライン読書会に行くために、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の第一部を読んだ。今回の再読は、あの事件の結末を知った上での体験となり、小説の中に隠された多くの伏線に気づくことができた。新たな発見が得られたので、再読する意味はもちろんあると言える。具体的な伏線については、ネタバレを避けるためにここでは明言しないが、結末に繋がるように第一部も緻密に構築されていたことが明らかとなった。
第一部では、特にドミートリ―の行動を通じて、現代の読者にも強く響く普遍的なテーマを掘り下げる。現代社会の諸問題、特に資本主義の下での消費文化との共通点があると感じる。

ドミートリーは自分の金がないのにも関わらず、湯水のごとくグルーシェニカに金を使っている。無職でありながらアイドルに莫大な金額を注ぐアイドルオタクや、ホストクラブにのめり込む女性の行動に、ドミートリーのような衝動性や瞬時の快楽を求める心が見て取れる。現代の若者文化において「推し」という言葉が盛んに使われているが、この言葉の背後には、資本主義のえげつない面が隠れている。アイドルやタレントに対する盲目的な支持や熱狂は、資本主義社会の商品化された文化の一部として展開されている。しかし、ドストエフスキーの描いた19世紀のロシアは、まだ資本主義の影響を強く受けていなかった時代。その中で、ドミートリーの金を使う欲望は、現代の「推し」文化と共通するポトラッチのような、金を使うことの自体の快楽を強調する面が見られる。ドミートリー自身も、現代のファンのように自らの行動や感情の理由をはっきりと説明できないかもしれない。その意味で、ドミートリーの心理と現代の若者の心理には共通点があると感じられる。

ここで三兄弟の性格配置を見てみよう。情熱と行動のドミートリーに対して、冷静と論理のイワンは対比としてある。
イワンは知的で論理的な存在であるが、彼の冷静さの裏には、神の存在の否定がある。功利主義的に生きようとしているが、あまりにも情がなく、歴史や宗教をないがしろにしている。当時の社会主義者をモデルにしたかのような人物像だ。
そして、アリョーシャである。アリョーシャは論理と行動、情熱と理性を兼ね備えた三兄弟の中で最も均衡の取れた人物と見えるが、彼の性格には裏の一面が隠れている。彼は祈祷性精神病の資質を母親より受け継いでおり、狂気に一番近いともいえる。カラマーゾフの一員として、彼は性欲の自己抑制に努めているが、かろうじて情欲を抑えているだけであり、もしかしたら三兄弟で一番性欲が強く、それを自分でも自覚している。

また、ドストエフスキーの小説の特異な点は、人間の行動と心理に関する真実を描いていることである。人々の行動が先に起こり、その心理が後で分析される。よく考えてみれば、人の行動は心理の結果というよりも、行動が先行し、その後「なぜそのような行動をとったのか」と自らを反省・分析することが多い。夏目漱石の「こころ」を先駆として、日本の近代文学はひたすら人間の心理を描き出し、行動も人間の心理の結果として描写していた。しかし、ドストエフスキーの小説は行動が先にあり、それを後付けでなんとか分析して本当か嘘か分からない言葉で説明しているに過ぎない。我々の実感としては、人間の行動と心理は、そちらに近いのではないか。

結論
『カラマーゾフの兄弟』は、19世紀の文脈の中で生まれた作品でありながら、その中に描かれる人間の行動と心理、そしてそれらの関係性は、現代にも通じる普遍的なものである。今回、この古典的名作の第一部を読むことで、現代人々の行動についても新しい視点を得ることができるだろう。

※この文章はCHATGPTの助けを借りて作成しました。

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