『父帰る』を『現代思想入門』的に読んでみる。
父帰るは10分くらいで読めるけど、最近読んだ色々な課題本や普段考えていることに関わってくる小説だった。
あらすじとしては、中流階級として慎ましいながらも幸せに暮らしている母子のもとに20年ぶりに突然父親が帰還するという話である。
私は不思議に思ったのは、長男が弟や妹に結婚を勧めておきながら、自分の縁談の話になると話をはぐらかすということ。これは弟や妹のために平気で自己犠牲になる長男を描きたかったという解釈もできるけど、ラカン的な解釈もできる。長男は結婚を避け、自分が父親の代わりになることで、母親と疑似夫婦生活を送り、母と一体化した万能感にあふれる状況のなかで生きている。そこに本当の父親が帰ってくるとラカンの言うところの「去勢」されてしまう。「去勢」されるのは嫌だから父親を排除しようとする。けれど最後は父親という他者を受け入れ大人になる。というエディプスコンプレックスを物語化したような話にも思える。
ラカンの次は素人ながらデリダ的に解釈してみよう。今は『現代思想入門』を読んでいるので、デリダの二項対立を脱構築した思想の影響を私は受けている。長男は完全な善であり、秩序を代表するアポロン的な存在、父親は完全悪であり、混乱を代表するディオニュソス的な存在のような気もしてきた。この小説は、長男の悪い部分、父親の良い部分を全く描いておらず、善と悪の擬人化にもみえる。
けれど、「現代思想入門」によれば、二項対立のマイナスとされていた面のプラス面を評価する(しかし逆転させるわけではない)のがデリダの「脱構築」らしいので、この小説に当てはめて父親をあえて評価してみる。
長男を除いて、あれだけ迷惑を掛けられた父親が帰ってきたことを迷惑に思うどころか歓迎するのは、家庭内のアポロン的な存在である長男の善性が強すぎるため、たまにはディオニュソス的な存在が恋しくなってきたのだろう。
学校で例えると風紀委員ばっかりになってヤンキーのような秩序を破壊する人たちが完全にいなくなってしまうとそれはそれで息苦しいみたいなものだ。
あれだけ正しくない父親のことを直接知らない子どもたちはともかく、苦労を掛けられた母親が歓迎するというのは普通に考えるとおかしい。もしかしたら父親はとても魅力的な存在だったのかもしれない。イケメンだったと母親も言ってるし…だいたい中国で千金丹を売り出そうとしたり、獅子や虎の動物を連れて興行しようとしたりする人が魅力的じゃないわけがない。そんな人がいたら面白いから、父親がいなくなっても周りの大人も子どもたちに話したりして、長男以外の子どもたちも好感をもったりしたのかもしれない。父親は正しくないけれど、とても面白い人だったのではないか。母親もそんな次から次へと事業に挑戦する父親も見て内心ワクワクしていた可能性もある。今は生活が安定してきたからそんな父親が恋しくなったのだろう。
だいたい、父親がいなくなってからは、家族が清く正しく生きてきたような設定だが、そんな正しく美しいだけの家庭というのは本当にあるのだろうか。
現代思想入門には、「他者」のイメージとしてこう書かれている。それは本当にそうで、私たちはいつも父帰るの「父」のような他者と共存しながら生きているのがリアルである。父親が出ていって、兄弟が探しに行くところで終わるが、父親は見つかるのだろうか。見つからなかったら見つからなかったで美しいラストであるが、見つかったら見つかったで、父親と共存して生きていくのではないだろうか。嫌でも他者と共存していかなければならないこと、それが我々の人生だからだ。
小説というものは「他者」を描いて、我々を揺さぶってくるものだ。揺さぶられながら、他者をできるだけ理解しようとすることが小説を読む意義の一つだと思う。
とはいえ、世の中にはサイコパスな人間もいるし、そんな人間と一緒に生きていくのは傷つくから、距離を取りたいと思うのも当たり前のことだ。別の読書会でもサイコパスとどう付き合うかが話題になっていた。それも「現代思想入門」に答えがあると思う。
長男が最後に父親を探しに行ったのも他者性への未練があったからだ。私が「父帰る」を読むたびに号泣してしまうのも長男の「優しさ」に共鳴していたからだったのだ。
我々は「他者」を切り捨てたり、距離を置いたりしないと生きていけないときもある。だが、仕方ないと開き直るのではなくて、決断したときに「他者性への未練」がある人、そういう人が優しい人だと思うし、私はぐっとくる。
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