見出し画像

日常の一コマ一コマに光をあてたロードムーヴィー「PERFECT DAYS」 監督ヴィム・ヴェンダース

久々の映画館。久々のヴェンダース。
映画とは出会いであり、気づきであり、人生の宝物でもある。


以下、作品の内容に触れています(ネタバレあり)
これからご覧になる方はご注意ください。
またこれからご覧になる方は、クレジットが流れるところで席を立たずぜひ最後までご覧ください。


いい映画でした。言葉にうまく言い表せないほど愛おしいシーンの数かず。
朝起きてから寝るまでの一日を淡々と描きながらも、その日々の日常がいかに貴重で美しいものであるか、通りゆく人を眺めること、行けばいつもそこに居る人たち、ストリートパフォーマーのホームレスの男、空を仰ぎ見たときの木漏れ日の一瞬一瞬の煌めきが胸を打つ。今日あったことは夢となり姿を変え記憶となってしまわれていく。

朝起きて仕事に行き帰宅して風呂に入りご飯を食べて寝る。ただこれだけのことが、毎日同じように来るわけではない。時として予期せぬ出来事が起こることもあるけれど、それでも変わらぬ優しさで日は登り一日一日が過ぎていく。そう、何があっても自分が自分の人生を生きていれば、完璧な日々(PERFECT DAYS)となる。

奇跡とは特別なことを指すのではなく、その実「なんでもないこと」がそこに在ることが奇跡。「愛」とはそういう場にこそ立ち現れるもの。そしてわたしたちはそんな完璧な日々を毎日過ごしていることに気づいていない。
ヴェンダースはそんな日常の奇跡の一コマ一コマに光をあて、人生のロードムーヴィーにすることで、わたしたちに気づきを与えた。


細かいことを言えば、全編にわたってヴェンダースの細やかな演出が心憎いほどにうまく、この監督ほんとうに流石なのだ。

アパートの一室に居を構える主人公が、目覚まし時計ではなく、住人の竹箒で落ち葉を掃く音で目を覚ます。これが彼にとっては目覚まし時計代わりであり、仕事のある日の始まり。
これが休日になると、その掃き掃除の音は聞こえない。そうか、今日は休みなんだとわたしたちは気づく。朝早くに起きなくてもいいのだ。

自宅から車で仕事に向かう途中、東京スカイツリーが見えたところで1970年代の音楽を流すのが常。スマホからでもなくCDでもなくカセットテープで聴く。でもある時だけ音楽が流れないシーンがあり、それは、前日にコレクションのテープが一個盗まれたから。そこに彼の淋しさを伴うやりきれない心境が描かれる。

ルーティンを見せ続けたあとに、「いつもと違う」シーンを所々に挿入することによって主人公の心の状態を描いている。台詞はほとんどない。

家族を持たぬ主人公のところに突如、姪っ子が現れると少しだけ日常にズレが生じる。いつもの行動がいつも通り行えない。けれど、わたしには、彼がその違和感を愉しんでいるようにも見えた。会わなくなった家族とは昔何かあったに違いない、と言うのは推測できた。だけど映画ではなんの説明もされない。父と息子の衝突。世の中によくある話だけどその溝は埋まらなかったようだ。埋まらないまま父親は認知を患っている。父親はもう思い出すこともないだろう。だが息子にとっては、その衝突が今なお現実となって記憶に残っている。父親に会いたくない。だから今俺はこうして生きているのだと。


映画の中で流れてくる音楽が、東京と言う都市に似合わずまったりとした曲ばかりで、ヴェンダースは映画の中の時間をゆっくりにしたかったんだなと感じた。

そしてラストに流れる曲がニーナ・シモンの「フィーリング・グッド」。ヴェンダースがこの曲を最後に持ってきた理由は、言わずもがな。歌詞にある。


夜が明けて新しい一日が始まる
私は私の人生を生きる
最高の気分だ



番外編 今日の珈琲

映画観ながら美味しい珈琲が飲みたいと、ちょっと高かったけどコメダ珈琲店の珈琲をテイクアウト。540円也。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?