止まっているようで流れている。
自分が写真に撮りたいものは一体なんなのか。ということを常に考えている。それが絵や言葉ではなく、なぜ写真なのか。なぜ今はフィルムなのか。
息子が生まれる以前と彼がいる現在では、その答えがより自分の中での正解に近づいている気がする。気がするだけかもしれないけれど。
少なくとも現像から返ってきた写真を見返したときに、
あぁ、僕が撮りたかったのは、きっとこれかもしれない。そう思える写真が多くなったように思う。
知人に写真を見せたとき、
写っている場所の雰囲気がそのまま思い出せるような感じがします。
と言われた。素直に嬉しかった。
その知人は、写真を撮ったときに同じ空間に居た1人だけど、撮りたいものはこれかもしれない。
写真は、その時のある光を計測して一枚のプリントに収納する。その写真に収められた光は、止まっている。その止まっている光景を見た人の心の中には確かにいくつかの時間が流れている。
過去を思い返し、今を感じて、未来を見つめる。
どんなに停滞していて止まっているように見えても、その水は着実に流れている。表現が難しいけれど、今、撮りたいものはこれかもしれない。
むしろ、撮りたくなってきたのかもしれない。
とはいえ、人生に正解はないからきっとこの考え方も年齢を重ねることでよりブラッシュアップされるのかもしれないし、方向を転換してまた何かを模索しているのかもしれない。
かもしれないだらけで恐縮ですが、
止まっているようで流れている。そんな写真を目指したいと思います。
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