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クヨクヨ期の父とヤルヤル期の息子

書くことができないと思っていても、書き始めたらそれができることが往々にしてある。書くまでは、いやぁ、今日もかけることがないなぁと思っていても、書き出したら止まらないことがある。いやぁ、書き出してもやっぱりどうしょうなくつまらないなぁ。と自分で自分を否定してしまう時の落差もあるのだけれど、その話を面白いか判断するのは、「SNSの先にいるどなたか」なので、自分でそれを判断しなくて良い楽さというものがある。

しかも、ここではおいそれと自分の内面性を両手をあげて差し出して共感を得ることが目的で、あわよくばいつの日か書いている先のどなたかとコーヒーを飲めたらいいな。とか仕事ができたらいいなと思っているので、恥ずかしいなと思いつつも赤っ恥をかきながら書いている。

ここ最近、どこか真面目すぎる話し方になっていないか。人との対話を楽しめているか。自分の話ばかりになっていないか。考え方が固まっているのではないか。と考えることが多く、心の中でクヨクヨしていた。もしかすると、対面する人にはそれが伝わっているのかもしれないと、さらにクヨクヨしていた。クヨクヨ期だったのだ。

そんなクヨクヨ期の僕、の息子はイヤイヤ期の真っ只中で、第二子のロウソクの火がもうすぐ着く日が近づいてきているので、赤ちゃん返り期でもある。その一方で彼は、僕がやるマンでもある。何をするにしても、僕がやると言って聞かないのだ。ヤルヤル期とでも言っておこう。そこで彼には、危険が及ばない限りなんでもやってもらうようにしている。ヤルヤル期で気をつけていることは、彼が集中している時に口を出さないことだ。写真を撮るときも撮るよなんて言わない。できなくなった時にようやく、こういう時はこうするんだよ。とか、こうするといいかもしれない。と口を挟んでいる。全てそうとは限らないけれど、そんな感じで息子と接している。

ヤルヤル期である息子に正面から挑んで、それは危ないからさせることができない!と言っても、息子はヒートアップするし涙が落ちる、僕ら親は疲れる。それで、自分がやりたいと言ったことを先にさせてみると、ある一定のところで今の自分にはできないと判断するのか、「できない」ということを自分から教えてくれるようになった。できない部分は、他の人にやっていただければいい。それぞれのプロフェッショナルがいるのはそういう理由だ。誰しもが、誰かのできない穴を埋めている。

昨日、家族で夕飯を共にしていると、左手でお皿を持って食べるようになった。妻や僕の食事姿をみていたからだろう。親バカ丸出しで言うけれど、彼は真似るのが上手い。日頃の生活態度を黙々と自分のものにしてしまうので、こちらもウカウカしてられない。どんなことも最初の礎を築くのは、真似から始まるようにおもう。真似ることができた部分と真似ることができなかった部分があって、その真似ることが出来なかった部分が、オリジナリティに変わるんじゃないか。と思っている。

ちなみに、彼の父である僕もまたそのオリジナリティというアビリティは、生まれてないと思っている。あと数十年くらい続けていれば生まれるのかもしれない。

それで、3月に友人と言ったキャンプの時の写真を振り返ると、それが写っているのかもしれない。と思ってこういうことを書いている。というよりも、出来ないことをやろうとしているとき、出来なかったことができるようになったとき、知らない何かを発見したような時の写真を残しておきたいと思っているのかもしれない。

そういうわけで、その時の写真をいくつか。

僕がペグを抜いていると、後ろから真似をしてついてくる
テントについた水滴を取るために
キッチンペーパーで拭いていて振り返ると
全身で拭いてくれている
収納するためにテントを折りたたんでいると
自分も巻かれようとしている
丘を登ろうとしていると
つまづいて転んでいる
靴も脱げるんだけれど
丘を登ることができた
古い消火栓があるのを見つけてそれをゴールにした
焚き火にくべる薪も自分で掴んで放り込んでいる
友人が見てくれているからこちらも安心して見守ることができる
息子と過ごすことが僕にとっての原動力になっている

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