人を失うというのは、可能性を失うということ
曇り空は苦手だ。
明るいのか暗いのかわからない空気が苦手だ。
ならいっそ大雨でもふってくれた方が良い。
その方が気も楽になる。
大雨だったら私のこの憂い顔も、多くの傘で隠されるだろうから。
先日夢を見た。
私の大切な人の夢だ。
夢の中でもその人は既に失われていて、
その記憶を辿ろうと必死になる夢だった。
色んな残された者たち、時計、衣服、本、ジオラマ、それらを取り巻く思い出をかき集めて、その人がどのように世界を見ていたかを考えていた。
その中で、気づいたことがあった。
それは、どんなに残されたものに意味を見出そうとしても、結局のところ答えがわからないということだ。
何をとっても「○○だったのかもしれないね」という言葉で終わる。
その先の答え合わせは、夢の中にも現実にもない。
そんな夢から醒めた後、気づいた。
人を失うことは、その人との対話の可能性や、更なる思い出づくりの可能性など、
あらゆる可能性を失うことだと。
本当はどう思っていたのか。
どうすればよかったのか。
どうあって欲しかったのか。
色々な疑問が浮かんでは消えるが、
その言葉を投げかけるべきひとはいない。
だとしたら私たちは、
可能性の残されている私たちは、
自ら周囲との線を切るのではなく、
どうせ無理だと諦めるのではなく、
自分はあの人はこうだからと思い込むのではなく、
対話を通じて、答え合わせをしていかなければいけないと思うのだ。
それが、人と関わる上で苦しくとも辛くとも最善な道だと思う。
勿論、
こんな意見を受け入れてもらえるのか、
こんな嫌な自分を見せられない、
わかってもらえないだろう、
と不安に思うことはある。
毎日がそれだ。
ただ、そう決めつけてしまっては、
その先の関係性は訪れないだろう。
「人間においての最大の贅沢は、人間関係における贅沢だ」と
サン=テグジュペリは言った。
人間が一番幸せになれるのは
人との関係性においてらしい。
なら、時々裏切られることや、
悲しむことは承知のうえで、
それでも一歩踏み出して対話をしていくことが、
この世で生きていくうえでは重要なんだと思う。
友人にこの夢の話をしたときに
「お盆だから、会いにきてくれたのかもしれないね」と言っていた。
会いにきてくれたのなら、
少しは思っていたことを伝えてくれても良いものを。
まぁ、仕方ない。
今日はそんなことも思いながら、
会社に行くことにする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?