彼と旦那を亡くした女性の話。

今夜は鍋にしようと昼間に買い物に行ったはずが、肝心のゴマだれを買い忘れたことに気がついたのはもう鍋を作り始めようとしていた時だった。


彼が「買ってくるよ。」と言ったので、素直にお願いるすことにした。

ところが近所のドラッグストアまで行ったはずの彼はなかなか帰ってこなかった。

もう鍋の中はいい感じに煮えていて、ご飯も炊けて
あとは彼とゴマだれだけなのに。


連絡もない。


これはいよいよおかしいな。
事故にでも遭ったのかもしれないと思った時にちょうど彼が帰ってきて
「ごめん、ごめん。」と言った。


「ゴマだれ無かったの?」と聞くと、

ゴマだれを買って帰宅する前に公園でタバコを吸っていたら、大きな犬を連れた女性に声をかけられたのだと言う。



彼はこのところ憧れていた、いやそれ以上の存在だったアーティストが亡くなったことで目に見えるほど塞ぎ込んでいて
そのアーティストが愛飲していたタバコを吸って物思いに耽る時間が必要だった。


この日もそうして彼にとっての神様みたいな人のことを思いながら、ため息を吐いていたのだと思う。


大きな犬を連れた女性は
「犬は嫌いですか?」と彼に聞いて、「大好きですよ」と彼が答えると
他愛のない話に続けて、最近旦那さんを亡くした話をしたのだと言う。


旦那さんは猟をする方で、
「今まで食べたお肉のなかでなにが一番美味しかったと思いますか?」と問われて

彼は猪ですかね?と答えたら、女性の中で一番だったのは熊らしい。

そうして生前の旦那さんの話をしているうちに
「旦那が亡くなってから後追いをしようかと思った」
「娘に引き留められた」と。


彼がその話になんと返したのかは、野暮だと思って聞かなかった。


そうしているうちに大きなワンちゃんが散歩を続けたくて急かしてきて、

女性は「また会ってお話しできますかね?」と言ったので
彼は「また会えますよ」と言って別れたのだ。


と、
ゴマだれを片手にした彼に聞かされて
なんて不思議で素敵な出会いがこの人にはあるのだろうと思った。


彼には彼が傷ついた時、そっと手を差し伸べてくれる人が必ず現れる。
丸まった背中をした彼を見て、きっと女性は声をかけたくなったんだ。



彼は次は私も一緒に会おうと言ってきて、
犬好きな私は好きなだけ大型犬がモフれるチャンス!と思う反面、
深く傷付いているはずのその人にかける言葉があるのだろうかと考えていた。



女性が後追いを考えたとき、娘さんは
「お母さんがいなくなったら私はどうやって生きていけばいいの」と言ったのらしい。


人は皆んな誰かを希望にして生きていて、その希望を失ったとき
自分も誰かにとっての希望なのだと一瞬忘れてしまうのかもしれない。



そう言えば

私の母親も私が生後間もない頃に旦那を亡くしていて。
兄妹3人を連れて海に行って、死んでしまおうかと思ったことがあると何度も聞かされた。

「まだ小さいあんたの顔を見てたら死にたくても死ねなかった。」と。



母とは折り合いが悪い。許せないこともたくさんある。
けれど犬を連れた女性の話を聞いて、
自分の母が生きていてくれて良かったと、鍋をつつきながらポロポロ涙がこぼれてきた。


母は私にとって、私に振り向いてくれはしなかったけれど、
ただ生きて、私にとっての希望であり続けてくれていた。


心を無くしてただ生きた母だったから、
私は母に感情を取り戻させようと子供の頃から必死だったのだけど。

だけどそれにも疲れちゃって
何をしても私に関心を示さない母を憎んだりもして。


だけどそれでも、母は生きた。


母は辛かったのだから許そうとか、物分かりの良い人間になるつもりはない。
いい子になろうとも今更思わない。


ただ生きてそこにいて、存在し続けてくれたことには感謝したいと
大きな犬を連れた女性の話から感じただけのことなんだ。




もしその女性に会った時、こんな話しはおこがましくてできないけれど。

私はただ犬が好きな変な女でいいから、また会えるのを楽しみにしてもらえるような人間でありたいと思った。

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