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20230416_ナショナルシアターライブ『るつぼ』

作品概要

National Theater Live 『るつぼ The Crucible』
作=アーサー・ミラー Arthur Miller
放映日…2023年1月26日 ※ロンドン
シアター…ギールグッド・シアター
上映時間…186 分(15分休憩あり)

あらすじ

“見ざる聞かざる言わざる“の精神の中で生きるセイラムの人々。牧師の娘が昏睡状態となり、「住民の中の誰かが悪魔を呼んだにちがいない」と言い出す人が出て、若い女性たちは、自分達の見たことを証言し始める。やがて恐怖、復讐、告発の風潮が地域社会に蔓延し始めて・・・

「National Theater Live in Japan 2023 - るつぼ」公式サイトより<https://www.ntlive.jp/crucible>

「これが観たかったんだよねー」というスタッフワーク

実はわたくし、アメリカ戯曲に少し苦手意識があって、なぜかというと基本寝ちゃうんです(笑)
なので昨年1年、がんばってアメリカ戯曲の作品を多く観にいって苦手意識をなくそうと頑張っていたぐらいです(克服できた作家もできなかった作家もおりました)。
その中でも、アーサー・ミラーは鬼門で、「セールスマンの死」「みんな我が子」「橋からの眺め」…見る作品作品、すべて睡魔に負けるということをやってきた歴史だったので、今回の「るつぼ」はそれに負けないぞ!という気合で挑みました。
何せ演出がカンバーバッチ版『ハムレット』のリンゼイ・ターナー、舞台美術が『リーマントリロジー』でも鮮烈だったエズ・ダブリンということで、観ずにはいられなかったのです。
結果、眠気どころかお目目ぱっちりでのめりこんでいました。
期待通りのスタッフワーク、特にエズ・ダブリンの舞台美術が効果的で、誰も入ることも出ることもできない、それを拒んでいるかにも見える、水の壁。息をするもの苦しくなるような閉塞感を醸し出す天井。美しく、おぞましく、残酷と思いました。

さらにその劇空間に味を添えていたのがキャロライン・ショウの音楽でした。素晴らしかった~。
広大な土地にある閉ざされた空間で、少女たちのヒステリックに加速していく心象や、麻痺していく小さなコミュニティに合っているという言ったらいいのか。宗教音楽に近い響きが怖さ倍増でした。
キャロライン・ショウといえば、ピューリッツァー賞音楽部門を受賞したアカペラ作品「8 声のためのパルティータ」を聴いてもらえばその音楽世界の一端に触れらるかと。

これは社会派ドラマなのか、寓話なのか、ホラーなのか

前述のキャロライン・ショウの言及部分で「怖い」と書いたのですが、本当に怖い、恐ろしい作品だなと改めて感じました。
その「怖さ」が、閉ざされた空間で起こる厳格なピューリタニズムの暴走や、社会的弱者(この場合少女たち)への圧力が招いた爆発といった社会派ドラマとしての怖さなのか、寓話ととらえるにはあまりに結論が見出せず、私はホラーやオカルト映画を観ているときの心持ちに近しい感覚を覚えました。
鑑賞後の痺れる感覚も、アリ・アスター作品を観るときの怖さに近かったかな。

・これはアリ・アスター的ホラーなのか
上に「アリ・アスター」の名前を出したけれど、日頃この作品条件においてホラーテイストを強く出してくる上演も多いように思っていて、今回のこの作品を観て納得でした。
アリ・アスターでいうと『ミッドサマー』や『ヘレディタリー』のような、ある小さく、かつ外界からは特異に見えるコミュニティを扱っているからに他ならないと思っています。
共通して恐ろしさをひしひしと感じるのは、それは時代や場所は違えど、そこにある事実(あったかもしれない事実)であったことかなと。
今回のNTL公演はドラマトゥルクの仕事が強調されていたので、
翻訳台本を読み返して、ドラマトゥルクがというより、アーサー・ミラー本人が「共同体(組織)がすべての排除と禁止の理念に基づいている、基づかざるを得ない」点や、ミラーが時代的に渦中にもあった赤狩り(マッカーシズム)について非常に克明にト書きというか、もう小説や文献のように示唆しているのがとてつもなく興味深かったです。
そんなコミュニティの閉塞感や禁忌に紐づく人間の精神状態が、現代世界に通ずるホラー味を高めているのでしょうね。

・犠牲者は誰か -形を変えたSpring Awakeningなのかも
戯曲を読みなおした感覚、また映画を観た記憶、他の公演の概要を観ると、アビゲイル(含め少女たち)の描き方によって全く違う印象を持つ作品だとも思いました。
戯曲を読む限りだと、まだ、少女たちへの抑圧された環境や、大人たちから子どもたちへの不寛容と暴力(性暴力も含め)についてはあまり問題視されていないように思って、
今作品はドラマトゥルクとしてなのか、演出意図としてなのか、その部分がより強く押し出されていたように感じました。
アビゲイルは17歳という「少女から大人になった悪女」ではなく、とても不安定で精神的に幼く描かれているように感じたし、他の少女たちも多分親や他の大人たちから様々な抑圧と加害を受けているような雰囲気を醸し出していて、もちろん、魔女狩りによって処刑や罰を受けた人々がこの作品における被害者には違いないのだけど、「本当にその人たちだけが被害やなの??」と思ってしまったわけです。
それを思うと、ヴェーデキントの『春の目覚め』(Spring Awakening)を時代的にも宗教背景的にも似ている部分はあるなぁと感じました。
捉え方として、あの時代、抑圧を受けてきた少年(『るつぼ』には出てこない男子→これも興味深い)・少女の何らかかしらの形を変えた反発・爆発を描いていると言ってもいいのかと思いました。

・罪は誰が許すものなのか
演出によってはアビゲイルとジョン・プロクターの関係に焦点を当てるものもあるとともうのですが、この作品はとにかく第2幕から再終幕へ向けてのジョンとエリザベス夫婦の密度とジョン・ヘイル牧師の揺れに魅せられます。
登場人物一人ひとりが、それぞれの「意地」を張り続ける中、この3人がその「意地の張り合い」から、早めに退却し自身が犯した罪や相手が犯した罪に向き合って言っているというか。

この劇中において、自身が犯した「間違い」を間違いと認め、その犯した罪を本当の意味で許すことができるのは誰なんでしょうね。
そんな問いをこの作品から受けた感覚になりました。

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