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團伊玖磨/歌劇『夕鶴』(新演出)を観た人間の発見

 2021年10月30日14時、東京での一回こっきりのオペラを鑑賞させていただきました。お恥ずかしながらオペラを観るのは初めてで、本当に全部歌なんだ、とか、声って低いと聞き取りづらいのか、とか色々と新しい気付きがあったのですが、そんな私でも「これが一回だけの上演で終わるのはもったいない」とわかるほどに素晴らしい舞台でした。と思ったら1月30日に愛知、2月5日に熊本でまだ公演がありました。ぜひ。
 今回、夕鶴のセオリーだったりオペラについて勉強してから書こうかと一瞬思ったのですが、何も知らない人間の記述は今しか書けないと思ったので、なにも調べずに率直に、まずは書こうと思います。(以下ネタバレ含みます)

公式ページ

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あらすじ

つうは、与ひょう(よひょう)に助けられた鶴。
正体を隠し人間に化け、与ひょうに嫁入りする。
そしてつうは夜になると、「覗いてはいけない」と与ひょうに伝え、
部屋の中で自分の羽で機を織り、
与ひょうはそれを売り、お金を稼いでいた。
それを怪しんだ町の男、運ず(うんず)と惣ど(そうど)はつうが鶴であると
あたりをつけ、与ひょうを誑かしつうに機を織らせるよう仕向ける。
金に目のくらんだ与ひょう。
しかし、つうは機を織れば織るほどやせ細っていく。
つうは最後に機を織り、与ひょうのもとを去る。

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 まず、コンサートホールに現代的な舞台美術があることに驚きました。トタンのような壁の中に、現代建築の家屋が建っていて、屋上の植物も印象的です。以下のツイートを参照してもらえるとわかりやすいかと思います。



 家屋はつうと与ひょうの家で、コンテナの形で機屋が建っています。屋上には与ひょうがくつろぐスペースがあり、イケイケベンチャー企業のオフィスのような雰囲気を感じます。私はあんな環境で仕事はできないと思う。与ひょうの働いてなさが露呈しています。
 その外側のトタンのような壁はつうのみが干渉するので、おそらくは現実の何かというよりもつうの世界というか、守りたい、与ひょうと一緒にいたい世界なのかな、と思います。つうの、「あの人を引っ張らないで」と怒りを露わにするシーンでは、その壁を殴っていたことはかなり印象的です。外側の世界、社会、人々、与ひょうに干渉するすべてを遠ざけたいような憎しみを感じました。また、オペラで歌っている人があまり感情を表に出す大きな動きをするイメージがなかったのでそういった点でも驚きました。

 今回は日本語と英語の字幕がリアルタイムで出ていて、初心者でも内容をスムーズに理解しながら観ることができました。三階席で見ていたのですが正直、運ず惣どの低い歌声や、オペラの歌い方で歌われる単語は聞き取れない部分があったのでありがたかったです。「つうよ」とかは「うぅあ~」という風にしか言ってないよな…と何度も聞いて気が付きましたが、子音を発音しないほうが良いとか、あるのでしょうか。

 衣装に関して。子供達や与ひょうがかなりリアルクローズだったので、他のキャストの衣装に驚くとともに、意図をくみ取ろうと色々と考えました。結局はちょっとわからなかったのですが…。以下のツイートをみていただけるとわかりやすいです。


 写真一枚目、中心四人が役者の方で、左から惣ど、つう、与ひょう、運ず。また、写真二枚目、黒い貝のような装飾を背負っているのがダンサー。やはり、つう、惣ど、運ず、ダンサーの衣装が形や色で目を引きます。実は、つうの衣装は機屋に入った後のもので、前は黒いチューブトップのシックなドレス(パンツ)でした。
 目を引く衣裳とそうでない衣裳を着た役の違いは何か。(比較的)質素でリアルクローズに近い衣装は純粋で欲に染まっていない状態で、ギラギラとした色や形は余計な装飾という欲が芽生えた状態とするならばどうでしょう。ただ与ひょうに愛されて生きていられればそれでよかったつうが、愛されるために、お金のために、身を削って機を織り、成り果てた姿は豪奢なシルバー。しかもアヤバンビみたいなダンサーまで連れています。これはもう、「おまえにはうんざりだ、私はもう別の道を生きる」という与ひょうへの決別の表れではないでしょうか。「お前のおかげでお金のこと、人間のこと、よくわかったわ、ありがとう。さようなら」そんな、人間としての強さ、資本主義的な社会で生きる術を身に着けてしまったつうの姿は、安易ですが、とても美しかったです。

 演出の話をするとかなり長くなるので、特に気になった部分を挙げたいと思います。恐らく、岡田さんの特徴だと思うのですが、ブレヒト的な異化効果を感じさせるものがいくつかありました。
 まず一つ目は、身体性。男性陣と女性陣の動きがかなり違ったように思います。男性の身振りはかなりゆっくりで、しかもなんというか、脇のしまっていない感じというか、抽象的な動きが多かったように思います。特に与ひょうは終始メトロノーム運動(重心を左右にずっと動かしている)をしていて、『三月の5日間』を彷彿とさせました。一方、女性、特につうは、鶴のような存在感としてでしょうか、人ではないような動きが多々見られました。羽のように手を背後に回したり、身体のラインや手の骨格が、鶴が地面を啄む様に見えたり。つうの心情が昂れば昂るほど、壁を殴ったり蹲ったりと人間味が出てくるのも面白かったです。
 二つ目は、照明です。冒頭、子供達が歩いてきてからポーズを決める一連の流れは、我々の興味を引き付けるには十分すぎるほどビビッドで明るく派手に、そうかと思えば劇中はシックで、かと思えばつうの心情とともに壁の蛍光灯のような明かりが点滅する。明かりだけ見ててもかなり面白い内容なのではないでしょうか。そしてやはり触れたいのは、つうが出ていった瞬間(後述)に客帳がバッと点いたことです。怪談を聞いていて、最後に「お前だ――――ーーっ!!」と大声で指を指されるようないたたまれなさが全身を襲いました。
 三つ目は、オーケストラの位置です。通常オーケストラはオーケストラピットという客席と舞台の間の、一段下がったスペースで演奏します。ですが今回はそのスペースを一段下げない状態、場所はそのまま高さが一階席と同じ場所で演奏していたのです。三階席から見ても、コントラバスのような大きな楽器が舞台に被って見えたので、一階席はどう見えるのだろうと思い、休憩時間(25分もあった。ロビーが社交場になっていて、オペラの観客層の違いや今作の注目度合いの高さを感じた)に一階席に行ってみました。そこで、家屋の床が数十センチ高く作られている意味に気が付きました。そして、オーケストラがただのBGMではなく視覚的にも空間に存在していることで、ただ夕鶴の世界に入れない感じがしました。

 子供たちの持っている、萌えアニメに登場するような女性キャラクターの顔のデカい風船(これで伝わるかいささか不安ですがそうなのです)も中々にインパクトがありました。子供達が社会の一部の大人からこう見えているということだとしたら、中々にえぐいです。また、彼らが要所要所で出てくるのは、異化効果の一つと言えるのでしょうか。私の中で子供(しかも大人数)というのは不確定要素なので、かなりハラハラしながら見てしまい、その間はかなり心が作品から離れていました。

 つうの扱い方が、とても現代的に感じました。おそらく通例と異なるのだろうと思います。ただ男に尽くすか弱い乙女で終わるのではなく、社会を知った女性へと変わっていく。この変化は、ある意味夕鶴の原作ともいえる鶴の恩返しの新解釈・新演出と取れるのではないでしょうか。「夜な夜な隠れて鶴の姿に戻り機を織る」という行為は、「愛する一人の男のために、夜な夜な隠れて娼婦となりお金を稼ぐ」行為の比喩のように見え、あのコンテナの中から出てきたダンサーはつうの買い手の男のようにも見えました。コンテナの中自体も、赤い壁紙にネオンの「ユーズル」「YOUZURU」の装飾などなど、めちゃくちゃカッコよかったです。加えて、最後、つうが与ひょうに別れを告げ去っていくとき、なんとつうが壁を蹴破って颯爽といなくなるのです。客席では若干笑いすら聞こえたような気がします。度肝を抜かれすぎて笑うしかない、みたいな感じでしょうか。セオリーを知っていれば知っているほど面白いだろうなあと、ちょっと後悔しました。

 長くなりましたが、全体を通し本当に新しいものだらけで刺激の多い時間でした。新しいものが評価されるのに時間がかかるのは、新しいから仕方ないというようなことをどこかで読みましたが、本当にそうだと思います。オペラということもあり観客の年齢層がかなり高く、ご年配の方の感想を伺ってみたいなあと思います。賛否両論色々あると思いますが、こうした作品を機に議論が生まれ、また新たな興味関心発想に繋がり、別の作品が生まれるのでしょう。その先陣を切ってくださるアーティストが最前線で活躍されていることに多大なる感謝を、恐縮ですが僅かながら、させてください。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

瀧口さくら

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