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エロ漫画家大喜利Vol.2で笑う夜

2019年11月9日、阿佐ヶ谷ロフトAにてエロ漫画家大喜利Vol.2が開催された。今回も入場客は大入り。第一回よりも、エロも不謹慎ギャグも飛び交う異様な空間。だからこそ心地よい。

司会は相変わらずエロ本の知識がなく、飯の場なのに食欲減退しそうなウンコネタまで手を出していたが、ご愛嬌だろうか。それでも、スムーズに進行していた。

主催者いわく、売上自体は第一回よりも少なくなってしまっていたらしい。客数は立ち見まで出ていたが、ドリンクやフードの注文が少なかったのだろうか。第三回は場所を変えることになるかもしれないという。継続はしていってほしい。

本来ならば、この手の大喜利はネットの笑いの代名詞だったように思う。しかし、いつの間にやら、不謹慎ギャグには石を投げるのが定番になってしまった。くだらない炎上遊びにかまける人ばかりで息が詰まる。

いわゆる、「テレビがつまらなくなったのはクレーマーのせいだ」との言説がある。これに対して「テレビマンはアイデアでそれを潜り抜けるべきだ」との反論もある。

それ自体は正論だが、限界があったのではなかろうか。もはや、何をするにしても、自粛が求められる。

すべてのテレビ番組がつまらないわけではない。テレビマンの努力の賜物だろう。だが、かつてよりも攻めていない企画も多い。こうなってくると、視聴者側に「物足りない」の欲求が高まってくるものだ。しかし、その発散の場であったネットは、石投げエンタメ勢によって殺伐とした空気が流れる。

スマホの普及によって、今までは敷居が高かったネットへの参入が、もはや誰でも出来る時代になった。その結果が、これなのだろう。世の中の多くは、だいたいつまらない人間なのだ。

自分の理解できないものを排除して、それで達成感を得て喜ぶような人間のほうが多数派なのである。くだらない。

そもそも、その手の人たちは、理解できないものを調べようとしない。興味のあるものに対しては、いや違うか。自分が正しいと信じるものを肯定するものだけは、たっぷり調べる傾向がある。誰かに勧められているのかもしれない。そして、知らないものに対して、自身の正義を振りかざしてワケのわからぬ妄言を垂れ流すのだから始末に負えない。

だからこそ、阿佐ヶ谷ロフトAで開催されるような、サブカルなイベントが心を慰めてくれる。知ろうとしなければ知れない。そして、参加者は、すべてそうやって集まったご同胞だ。その空間に足を運ぶだけで心が躍る。あとは、自分の気に入った空間が少しでも長続きするようにと、投げ銭をする。

今後は、このような深く刺さるお遊びは、閉鎖的空間だけで少人数で楽しんでいくしかないのだろうか。それは、とても寂しい話だ。広く広く楽しめる場があったほうが、いろんな遊びが生まれる可能性がある。文化の芽である。それをくだらない理由で潰されるのは、少々気が滅入る話ではないか。

ゾーニングされるべきは、大衆のほうである。

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