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国民国家と近代文学の概要

意外と知られていない近代国家と文学の関係をまとめてみました。


国民国家と国語、近代文学の誕生

近代の国民国家成立時、ネイション形成に必要な共通語「国語」創設に寄与したのは国民「文学」でした。

「文学」による「国語」形成

「文学」によって「国語」が形成されたというベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』があります。

近代の国民国家の成立の歴史からも明らかなように、近代国家の成立と、「国語」の成立が不可分であるとしたら、「国語」を形成するために大きく寄与したのは文学である。ナショナリズム論の古典中の古典となったベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』において強調されるのは、国民(ネイション)形成における出版資本主義の重要性であった。小説や新聞の流通によって「口語俗語」が「国語」として形成され、それを読む相互に無関係な多数の人々が、地縁的・ 血縁的なつながりを越えたある一つの共同体に属しているという意識を共有するよう になる。自分たちのことを「私たち」と言えるような人々の集=国民を創出するために、近代の国家は何よりも共通の言語を必要とした

https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/gengo5-1.pdf

国民国家統合のためのメルフェン・児童文学作成

近代のドイツ帝国のメルフェン『グリム童話』や大日本帝国における『源氏物語』など古典小説などが国民統合の象徴、近代文学の祖とされました。イタリア王国の児童文学『クオーレ』は国民統合のために書かれました。

『グリム童話』は五〇年近くの間に何度も書き換えが行われ、次第に変質していった。その過程でグリム兄弟が擦り込んだのは、当時の市民階級に期待された倫理観や家庭像であった、とする。『グリム童話』は国民国家を形成するための「近代メルヘン」を創造したので、広く諸外国で迎えられた

http://web1.kcn.jp/takehara-folklore/shohyou1.htm

『クオーレ』とは1886年にデ・アミーチスの著した児童文学のベストセラーで、『母をたずねて三千里』などその中のエピソードは日本でもこれまで何度かアニメの題材にされてきました。

長らく統一国家が存在せず、遅れて近代化の流れに乗った19世紀のイタリアは、国民国家形成のための新しい価値観の創出ということが至上命題としてありました。それは国を統合する愛国心、自己犠牲の精神、勇気、思いやりといったものでしたが、そのような価値感を称揚する上で、個の尊厳というものが当然のように犠牲にされてきた

https://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/05/blog-post_24.html?m=1

国民国家と文学
https://faculty.washington.edu/tmack/publications/Kokumin.pdf

明治期における「文学」概念の形成過程をめぐる国民国家論 (4)https://suzuka.repo.nii.ac.jp/record/1373/files/KJ00004723232.pdf

小説流行による「国語」の確立

時代が違っても読者に違いはありません。

いまや小説は、あらゆる階級の女性の読み物の大きな部分を占めつつあり…彼らはしばしば小説のたぐいを異常に欲し、それも教養小説ではなく感傷的な恋愛小説を読みたがる。

…怪奇小説や、ぞっとする推理小説などの恐怖までもが患者の想像のなかになまなましく浮かび出て、知らぬ間にしのび寄り、ついには眠りを妨げるほど制御できないものになってしまう

"Notes on Nursing"(『看護覚え書き』 
1859) フローレンス・ナイチンゲール
『大英帝国 最盛期イギリスの社会史』長島伸一P6

近代日本文学史

あまり知られていな、近代日本文学史の概要です。

近代文学の役割終焉

柄谷行人は国民国家が確立されたとき「近代文学」の役割は終わると述べています。

近代国民国家は白紙の状態から生まれるのではない。それぞれ、世界帝国という“地”の上に形成されるのである。その場合、文学の役割は極めて大きかった。それは、漢字やラテン語やアラビア語といった世界帝国の文字言語に対して、新たな文字言語(言文一致)を形成するものである。しかし、一度国民国家が確立されると、「近代文学」の役割は終わる。われわれは今、それを目撃しつつある。それは、国民国家を越えて、ヨーロッパ共同体のような「世界帝国」の新版が形成される過程に対応するものである。その意味で、「近代文学」は終わる。しかし、それは文学が終わることを意味しない。あるいは、批判的な思考と想像力が終わることを意味しない。今後に、それがもっと必要になる

http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-37.html

「純文学」(近代文学)終焉後の現代

純文学への無関心

ほとんどの人が「純文学」への関心がなくなった現在等についてのエッセイです。

可能性としてのリテラシー教育 はじめに  助川幸逸郎https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/img/literacy_preface.pdf

キャラクターとの関係

ライトノベルのキャラクターと作家の関係は大きく変化しました。

近代国民国家において、文学者は国家思想・イデオロギーの担い手文化人

滝村隆一による国家論いわゆる滝村国家論においては、近代の国民国家で文学者がエリートであったのは、国家のイデオロギーの担い手であったためとされています。

「第三に、〈国家的秩序〉維持観念たる〈政治理念〉乃至〈国家理念〉を、思想的・イデオロギー的に基礎づける政治的イデオロギー乃至国家的イデオロギーの領域がある。」

「制度イデオロギーとして定着せられた政治的思想・イデオロギーについて簡単な歴史的一瞥を加えれば」
「〈近代〉以降においては、広く〈人権〉思想を哲学的・人間的基礎とした国民国家主義として登場した」

「第三の〈政治的思想・イデオロギー〉の担任者とは、体制的な思想家・学者・イデオローグであり、これを歴史具体的にみれば、」
「近代以降においては、国民国家体制すなわち近代国家の内的・外的な体制的秩序維持に任ずるすべての学者・思想家・文学者・宗教家等々である。」

〈政治家〉論 -〈官僚〉・〈政治家〉と〈政治〉の 規範論的構造
滝村隆一

現代思想2 1974 2-2

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