見出し画像

文化以上に失われつつある「自己肯定感」【伝統文化】

どうも、日刊【書くメシU30's】マガジン月曜担当の佐々木(@moto_ssk)です。

日刊【書くメシU30's】マガジンは今日から第13週に突入です。

そういえば、先週の僕の記事でマガジンとして100記事目を迎えたようです。11月から始めたので約3ヶ月で100記事ということですね。
note以外にもブログを書いてるので、100記事という節目を迎える早さに驚いています。同時に、共同運営マガジンの凄みを感じています。

先週は【#ドラえもんに何頼む?】というテーマで書いてきました✍️

比較的これまでのテーマは抽象度が高く、ちょっと難しめのものが多かったのですが、先週は子ども心を思い出しながら書くことができたかなと。

どの記事も自身の「欲」を満たすには…と考える一方で、結論としては、
自分でやるべきことは自分でやる
道具に頼りすぎない
と自律した意見が多かった点は個人的におもしろい発見でした。
現代社会に話を置き換えて考えると、インターネットという便利な道具は登場したけれど、簡略化できない(しないほうがいい)部分はしっかり向き合うという心持ちのようにも感じました。

ただ、インターネットがいろんなことを大きく変えてきたのは事実です。

インターネットの登場によって、遠く離れた人とのコミュニケーションは手紙からメールに変わりました。電話はテレビ電話に変わりました。年始の挨拶も年賀状からLINEスタンプに変わりました。
このように日本の古き良き伝統文化は形を変えてきているように思います。

そこで今回は#伝統文化をテーマに、時代の変化とともに文化はどのように変わってきたか、そしてこれからどんな形に姿を変えていくのか?
そんなことを考えてみたいと思います。

それでは今週も日刊【書くメシU30's】マガジンにお付き合いください🙏

目次
・「自分の好き」よりも「他人の好き」
・「自分の意見」よりも「他人の意見」
・「自分のことば」よりも「他人のことば」

「自分の好き」よりも「他人の好き」

1年半前の記事ですが「日本から失われつつある伝統技術を嘆いたツイートが反響」という記事があったので紹介します。

👆の記事で書かれているのは、

・伝統技術が減りつつあるのは職人が減ってるから
・技術が絶えていくのは日本人が安さを求めるようなったから
・「日本のスゴイ」を理解しようとしない「日本はヤバイ」

といったような意見です。例えば「年賀状」もそのひとつかもしれません。

年賀状の発行枚数は15年連続で減少しているそうです。先日、U30で新年会@zoomを開催しましたが、年賀状を送ったという人は数人程度でした。

しかし「年賀状は送らないけど新年の挨拶はしたい」という想いは世代違えど共通なのか、年賀状送らない世代はLINEで送ったり、SNSで挨拶するなど、形変われど年始の挨拶という文化が失われているようには感じません。

というより、若い世代はどんなコミュニケーションもSNSですよね。

👆の記事では、「若い世代(主に平成生まれを指す)のコミュニケーションがデジタルシフト化しており、デジタル依存することで、人ともあまり接せず、リアルでの自分に自信を持てなくなってきている」と書かれています。

ここで結論ですが、個人的に失われつつあるのは文化以上に「自己肯定感」なんじゃないかと。

たとえば、服とかカバンとか身につけるアイテムにおいては「できるだけ変じゃないもの」を求める傾向があるように思います。雑誌で紹介されてる、友達が勧めてる、インスタで流行ってるなど。自分が着たいもの以上に。

「他人の目」からみておかしくない状態でいたいという防御意識が働いてるようにも感じます。「自分の目」にはごく普通に映ったとしても、「他人の目」からみて普通でなければ、容易に「普通でない」に上書きしたり。

「自分の好き」よりも「他人の好き」のほうがウエイトが大きいというか。

「自分の意見」よりも「他人の意見」

この傾向はインターネットによってもたらされたと解釈することもできるのかなと。SNSによって「他人の反応」を伺いやすくなりましたからね。

「いいね」や「RT」数が多ければ多いほど、世の中に受け入れられている意見だと解釈したり、フォロワー数が多い人の意見は"絶対的な意見"として疑いもなく受け入れたり。数の大小にめちゃめちゃ影響されてると思います。

・多様性を受け入れる!
・好きを仕事にする!
・一度きりの人生、生きたいように生きる!

という一部の人の意見(他人の意見)に迎合することがすなわち「自分の意見」になってる人もいるように思います。

ただ、匿名だとみんな強くなれますよね。

実名では本当の主張が言えない(言えなくもないけど他人の反応がこわい、言い合いになるのがめんどくさい、など)ために、匿名という力を使って言いたい放題。それが過激な意見だろうが知ったこっちゃない。
そうしてバランスを保ってる人も少なくないかもしれません。

本当は「自分の意見」があっても「他人の意見」に乗っかるというか。

「自分のことば」よりも「他人のことば」

この傾向の要因を突き詰めて考えていくと、「自己肯定感の低さ」にたどり着くのかなと。

「好きだけど、自分より好きな人はいるかもしれない…」
「たぶんこうだと思うけど、間違ってるかもしれない…」
「言いたいことはこれなんだけど、伝わらないかもしれない…」

自己肯定感が低いからこそ、「反対意見を言われること=自分を否定されること」に即時変換されているようにも感じます。

なによりも「反対されたくない」意識がまず働くことで、
「自分の好き」よりも「他人の好き」のほうがウエイトが大きい
かったり、
本当は「自分の意見」があっても「他人の意見」に乗っかる
ことを選んでしまったりしてるのかなと。

ではどうすれば「自己肯定感」を高めていくことができるのか…

「自己肯定感」はこう意義されています。

自己肯定感とは自己価値に関する感覚であり、自分が自分についてどう考え、どう感じているかによって決まる感覚です。

👆は既存の言葉に当てはめると「メタ認知」ですよね。

「メタ認知」をするてっとり早い方法は「自分のことば」で自分の考えを表現することのように思います。それは「書く」でもいいし、「しゃべる」でもいいし、「描く」でもいいし、なんでもいいと思います。

自分の内面に起きた感情の変化を「自分のことば」で残すこと。

とはいえ「自分のことば」なんてハナから持ち合わせてる人なんていなくて。ただ、持ち合わせてないからと0から開発する必要もなくて。

それこそ最初は「他人のことば」の受け売りでもいいと思います。ただ、必ず自分の意見を添えてみる。「自分はこう感じた」という意見を持ってみる。ときには意見を周りに打ち明けてみる。
この行為を繰り返すことが「自分のことば」になっていくのかなと。

いつまでも「他人のことば」にパクつくんじゃなく、「自分のことば」を熟成させていくというか。

こうしてマガジンを通して自分の意見を書くこともひとつの方法です。

今回のテーマは#伝統文化でしたが、考えれば考えるほど、失われつつあるのは「自己肯定感」なんじゃないかと思いました。
なんだか話が逸れた感はありますが、このあたりでまとめにします。

ひと昔前、一家の大黒柱は「お父さん」でした。お父さんの考え方が一家の考え方であり、それがご近所と食い違ってもそれはそれでよしという文化。
ところがテレビの登場により、大黒柱は「お父さん」から「テレビ」に移り、インターネットの登場により「テレビ」から「個人の意見」に移りました。

これは誰もが発信者であることを示すと同時に、何を信じるか?ということ自体、受け手に委ねられるようになったことを示していると思います。

誰がなんと言おうと自分の考えを貫く強欲さもときには必要でしょうし、柔軟に考える場面もときには必要でしょう。つまりは自分を客観的にみるメタ認知能力がこれまで以上に必要になってきてるんだと思います。

そのためには自分の変化を「自分のことば」で表現することがひとつの方法なのかなと。僕が「書く」を継続してるのもメタ認知のひとつだからです。

「自己肯定感」について、最後に論理補強的に以下の記事を載せときます👇

今週も最後まで読んでいただきありがとうございました🙌

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?