間(魔)の演奏論

私のピアノの奏法の理想は完全即興である。要所要所だけ台本を決めて引くこともあるが、重要なのはその台本自体ではなく重要なのは「間」である。「間」には真実も嘘もない。この「間」をどうしていくかが最初にして最後、原点にして頂点の課題である。
「一度でもスクリプト通りに弾いたことがあるか??」
「王道」を崇拝する人々はこのように、私を「不遜だ」という。
彼らは「間」を操れるのは特別な人間だけだと思っている。そして私と同じようにしてここにいる「お前(私)」にそんなことはできるはずがない、という。しかしスクリプトは何のためのスクリプトだろうか?一つには「間」自体である我々を「存在」から切り離すためのものだろう。スクリプトに集中することによって我々は文字通り「没我」の状態になり、「間」として本来の自由な姿を取り戻すのだ。我々は「私」という存在として間の力を無力化されているだけなのだから。

「間」そのものを扱うのは本当に骨の折れる作業で、いや、本当に何回か本当に骨が折れかけたことがある。一瞬、一瞬に間を見出すためには「流れ」に対する熟知が必要だ。私は屋外で紙飛行機を飛ばしたとき、友人のプロレスごっこをしたときにこれを培った。しかし、大人になるにつれて「存在」を重視した思考を武器にするようになり、それらは殆ど「迷信」か何かであるように感じられた。しかし、本当は「間」の方こそが永遠なのであって
存在は「間」を見出すための手段に過ぎなかったのだ。

だから楽曲は存在しない
楽譜は存在しない
作曲家も
アーティストも存在しない
存在自体が間にとっては存在しないも同然なのだと思う。

殆ど当たり前のことしか言っていないし、いかにも蘊蓄おやじが言ってそうなことをもっともらしく言うのもなんだか「ハハッ!」ってなるが本当に「間」である。それはもちろん「空気」でも、「真空」でもなく、「真の真空」でも「何もない」ことでもなく、ただの「間」である。

16歳の時に大乗仏教と現代宇宙論の間に見出した何かは、存在によっては絶対に語られないものだった。大事なことなのでもう一度言う。「存在」によってはそれは語られない。全く裏の文法でしか語りえないものだ。それをわざわざもったいぶってかっこよさげに存在の側から歩み寄らなければならなかったり、犇めく存在につかれた人々を酔わせてまがい物を見せたりしなければならないのだろうか?

存在(Be)と間(Do)。
間に巣くい、うごめく無数の声たち。
「0の時間」では無数の存在達がその声を支えた。
「0の風景」では、間が間の反響を呼ぶ。素粒子にすらある大きさと時間は間においてはない。それは向こう側とこちら側がないということで、「間」であることを確認することもできない。無数の間が流れ込んでくるということ、終わりや端がないということだけが感じられる。

設計だけでは、到底たどり着けないが、全く勢い任せなだけでは絶対にたどり着けない。

私はひたすら走り続けて、食べて、眠るしかないのかもしれない。


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